幻影少年
酒のせいもあってか、普段の加藤からは信じられないほど、口から言葉が出てくる。酒の力が喋らせるのか、それとも、喋りたいことを、酒の力を借りることで、実現しようとしたのか分からない。それでも喋ることができたからなのか、安心しているようだった。
だが、見せている姿は、情けなさに尽きる。今まで豪傑だと思っていた人間が、ここまでなるのかと思うほどの情けなさなのだが、逆に、彼も普通の人間だったんだと感じることで、彼の顔に浮かんだ表情が、安心感から来るものだということが分かってきた。
加藤が、どうして急に話をしたいと思ったのか、そして、相手がどうして樋口なのか、考えてみれば、不思議だった。
普段から少しでも話をしているのであれば分からなくもないが、まったく話をしたこともない。それどころか、
「やつは、俺たちとは別の人種なんだ」
くらいにしか思っていなかったのである。
もっとも、加藤は樋口だけではなく、誰とも話をしていないだろう。誰かと話をしているところを見たこともないし、誰かと話をしているところを想像するのも、不可能に近かった。
「どうして、その話を僕になんかするんですか?」
聞いてみたかったが、答えは決まっているだろう。
「誰でもよかったんだ。聞いてさえくれれば」
というに違いない。
それでも、軽い気持ちで聞いてみた。すると、答えは意外だった。
「樋口先生ではないとダメなんです。樋口先生なら、俺の気持ちが分かってくれるような気がしたんですよ」
「えっ? どういうことなんですか?」
思わず怪訝な表情になり、疑いの目を加藤に向けてしまった。
「いや、樋口先生なら、女性から見つめられた時の気持ちが分かってくれるようだって思ったからですね」
どういうことなのだろう?
最近の自分のことを考えてみると、おのずと答えは出てきた。
――美麗のことだ――
美麗は、樋口を慕ってやってきた。その顔は、完全に樋口を求めていた。最後の一線は超えなかったとはいえ、愛し合ったと言っても過言ではないだろう。それなのに、学校にくると、利恵も気になってしまう。
――一体自分はどうしてしまったのだろう?
と、考えさせられるのだった。
加藤は、美麗のことは知らないはずだし、元教え子が訊ねてきたなど知る由もないだろう。それとも、樋口の中で、抑えているつもりでも、見る人が見れば、分かってしまうようなオーラを発しているというのだろうか。それをこともあろうに、加藤に見抜かれてしまうなど、まったくもって情けない。
加藤に対して、さっき感じた情けないという言葉、そのまま今の自分に返したいくらいの気持ちだった。
「樋口先生は、女性に見つめられると、どうなります? 緊張で身体が動かなくなるとか、逆に、自分に自信が持てて、見つめられたことを、好かれていると思い、力が出る方ですか?」
加藤の言葉から察すれば、自分は後者だろうと思う、自惚れかも知れないが、普段見つめられたことのない人間が、見つめられると、確かに加藤の分析した通りのどちらかなのだろうが、樋口の場合は、見つめられた時、以前から、誰かに見つめられる時がきっとやってくると思っていたかのように思えてくるのだ。そう思うと、やっと来たという思いから、力も湧いてくると言うものだ。
「僕は、好かれていると思い、力が出る方かも知れませんね」
と、言いながら、最後の一線を超えることができなかった自分に、
「力が湧いてくる」
とは、言い難いものを感じていた。
「加藤先生は、何が言いたいんですか?」
「前にいた学校で、生徒が行方不明になった事件があった時、俺を見つめていた女の子がいたって言ったよな」
「ええ」
「その時の視線を、俺は今感じるんだよ。俺を見つめる視線は非常に強いものなんだが、痛さは感じないんだ。普通、鋭い視線は、痛いっていうだろう?」
「はい、そう聞いたことがあります」
実際に樋口は、自分も今までに鋭い視線を感じたことがある。それは女性からであればいいのだが、そうではなく、高校時代の友達からだった。その友達に対して裏切り行為をしたというのだが、自分にはそんな思いは一切なかった。しかし、友達があることないこと、他の人に喋ってしまったので、結局樋口は、一人孤立する運命をたどったのだ。
そのままグループからは弾き出され、結局、高校を卒業するまで、どこのグループに所属することもできなかったのだ。
その時の理由はずっと分からなかったが。最近、やっと思うところを発見した。
それは、自分が友達の視線を最初に分からなかったことが原因だったのではないだろうか? いきなり強い視線を浴びたわけではなく、最初から友達は、信号を送っていたのだ。鈍感な樋口はそのことに気付くこともなくやり過ごしてしまっていたために、結局、他の友達からも、無視されてしまったのだ。
最初に視線を浴びせた友達かからすると、
「どうだい? まわりの人間から無視されることの恐ろしさは」
と、言って、ほくそ笑んでいたかも知れない。
「そんなことを今さら言われても」
と言って、胸をかきむしる。
痛みは感じないが、すぐに意識が朦朧としてきて、急に足元に穴が開いて、奈落の底に叩き落される感覚があった。
ハッと目を開くと、そこは自分の部屋で、ベッドの上だった。
「夢か」
安堵の溜息を吐いたが、果たして次の瞬間に感じたのは、安堵の続きか、現実に引き戻されたことで、無視された現実を思い起させられる苦しみがよみがえってきたのか、すぐには思い出せなかった。
ただ、最終的には、苦しみだけが残った。現実の世界には、夢の世界を持ち込むことはできないのだ。
加藤が樋口に何を言いたいのか、ハッキリと分からないが、とりあえず、話を聞くしかない。
「俺は、今年に入って、三年生を受け持つことになったんだが、新入生の中に、俺に対して強い視線を浴びせている人がいることが分かってきた。その鋭い視線は、痛い視線ではなく、柔らかく、包み込まれるような視線なんだ」
「……」
分かるような分からない話に、疑念の表情しか湧いてこないのではないだろうか。
「分かるかい? 痛い視線の方が、まだいいかも知れないという気持ちが。柔らかい視線は最初に感じるには、心地よくていいのだが、いつの間にか、我を忘れてしまっていて、気が付けば、自己嫌悪が渦巻いている中に、放り出された感覚になってしまっているんだ」
「それは、以前の事故の時の自分への反省からではないんですか?」
一番その答えが正当な回答に思えた。
「いや、そうでもないんだ。意識はハッキリしていて、錯覚でも、思い込みの激しさから来るものではないんだ。普通、何かあれば落ち着こうと思うだろう? 包み込むような視線には、却って逆効果なんだ。相手の方が思いは強いので、すぐに巻き込まれてしまう。そのせいで、俺は自分が分からなくなってしまうんだ」
自己嫌悪というのが、また分からない。
「でも、自己嫌悪って、気が付いたらなっていたっていう、そんな感覚のものではないと思うんだが」