幻影少年
性格的に得なのか、それとも損なのか、樋口には分からなかった。ただ、樋口に対してだけは、得だったのではないかと思えた。樋口が加藤に対して抱いたイメージが、おぼろげになっていき、次第に大きくなっていくように思えるのだ。
――相手の性格をハッキリと読むことができない――
と、思うことで、相手に対して、絶対有利な立場を保つことができる。それは、一旦身についたものであれば、容易に取り除くことはできない。最初に強烈な印象を与えられると、疑う余地がないほど、信じきってしまう感覚と同じではないだろうか。
それからしばらくして、加藤は、学校を休みがちになった。それまで、休むことなどなく、いつもの豪傑さを、如何なく発揮していたのだが、休みがちになる前くらいから、明らかに何かに怯えていた目だった。
その時に、以前に話していた
「女性と目を合わせると、俺は悪いことをしているんじゃないかって、思ってしまうことがあるんだ」
という言葉を思い出したのだ。
豪傑な男は、女性に対して、どういう意識を持っているのだろう。モテたいなどという他の男性と同じ感覚を持っているのだろうか?
「樋口先生、今度一緒に呑みに行きませんか?」
と、加藤に声を掛けられたのは、それから三日後のことだった。他の人に対しての態度と自分に対しての態度が違っていることは何となく分かっていたが、まさか加藤から、呑みに誘われるとは、思ってもみなかった。
「いいですよ、でも、僕はあまり呑めませんからね」
最初に言っておかないと、豪傑に付き合わされてはかなわない。実際に、あまりアルコールに強くない樋口の言葉に、ウソはなかったのだ。
連れて行ってくれたのは、加藤の家の近くにある居酒屋だった。縄のれんの掛かった、
「いかにも呑み屋」
という雰囲気を醸し出した店で、中から焼き鳥のおいしそうな匂いがした。焼き鳥の匂いは、食べる前から満腹感を味あわせているかのような匂いなのだが、食べ始めると、いくらでも食べられる気がするから不思議だ。腹八分目で止めて、まだ食べられる余裕を残しておいたはずなのに、夕食の時間になっても、腹が空かないというのも、おかしな話ではないだろうか。
「私が、この学校に赴任してきた理由は、もうご存知なんでしょう?」
樋口が、まだコップ半分くらいしか呑んでいない間に、加藤は、すでに五杯くらいは呑んでいただろうか。酒の呑み方も人それぞれだが、呑んでいて、楽しそうには見えなかった。
意を決したかのように、コップを見つめ、目を瞑ったかと思うと、一気に喉を鳴らしながら、飲み干していく。とても味わって呑んでいるなどとは言いがたかった。
「ええ、校長先生から伺いました」
「そうですか」
そういうと、少し背中を丸めて考え込んでいたが、その姿は普段の加藤から、想像できるものではなかった。
「とても、お辛い思いをされたのかと思ってますが」
本当は思ってもいないことを口にしていた。加藤くらいの豪傑な男であれば、辛い思いなどしてほしくない。豪傑を地で行くのであれば、辛いなどという感情を口にしてほしくなかった。
そう思っていると、さらに加藤は萎縮した態度を示した。こちらの考えている気持ちが分かるのだろう。普段から気を遣わない男が、相手の気持ちを分かるというのもおかしな感覚だが、気を遣っていないように見せかけて、実はしっかり気を遣っているのかも知れない。
中には、無意識に気を遣っている人がいる。そんな人は案外、豪傑に見えたりするものだ。自分を表に出すと言うことを嫌う性格の人は、人に気を遣うことも嫌うだろう。ただ、自分の中に正義があり、人に迷惑を掛けたくないという気持ちが、寂しさを忘れさせようと、自分の中で葛藤を繰り返しているのかも知れない。
だが、今回の樋口の言葉が気に障ったのか、少しイライラした様子で、
「お辛いとは、どういうことなんですか?」
まさか、その言葉に反応するとは思わなかった。イラついている様子を見ると、やはり怒っているのに違いないようだ。
「あ、いえ、自分がもし、同じ立場になったら、どうなるだろうって、勝手に想像しただけです」
「それが迷惑なんだよな。勝手に辛いなんて思われたら、俺はどうすればいいんだよ」
と、怒りの矛先を樋口に向けようとするのだが、どうやら、自分でも、どうしていいのか分からないようだ。
「すみません」
とりあえず、謝っておいた。こんなことで波風を立てるのは愚の骨頂だった。相手が迷った顔をしている間に、謝っておけば、それでいいと思ったのだ。
加藤も、それ以上は詮索してこなかった。ただ、少し考え込んでいる時間があるだけで、後はそのことについて触れてくることはなかったのだ。
――最低限のモラルくらいは持ち合わせているんだな――
見直したというところまでは行っていないが、まったく話をするのが嫌だというところまでは行っていなかった。
「お前は、自分のことを、最低だって思うようなこと、あったかい?」
下を向いたまま、加藤はボソリと呟いた。
「それはどういうことだい?」
「普段と同じ精神状態で、本能のままに動いていたら、注意しないといけないことが疎かになってしまって、大きな問題になってしまったら、激しい自己嫌悪に陥るよな」
校長先生の話していたことの内容の話であろうか。もしそうであるとすれば、加藤は、監督しなけばいけない立場にありながら、本能の赴くままに、仕事をおろそかにしたということであろうか。
それならば、自己嫌悪に陥ることも、自分を最低だと思うことも、別に不思議のないことだ。何も感じないのであれば、その人は、その時点で終わってしまっているだろう。
――それにしても、どういうことが、この男にとっての本能なんだろう――
普段から、人と関わることを自ら拒否し、だからと言って、自分の世界を確立しているようにも思えない。最初こそ、豪傑な雰囲気は、それだけで十分、自分の世界を作っているように見えていたのだが、寂しさを表に出さなかっただけで、本当は、寂しさと自己嫌悪に毎日悩まされていたのかも知れない。
一旦、人との関わりを自らが拒否してしまったら、まわりから相手にされなくなってしまう。そのことを、樋口は分かっているつもりだが、それ以上に分かっているのが、目の前にいる加藤ではないかと思えてきた。
――加藤が、俺を呑みに誘ってくれたのは、俺に同じような感性を感じたからなのかも知れないな――
同じようなものを感じると、親近感が湧いてくる。今まで見えていなかったものが見えてくると、まるで、他のことまで考えが同じになっているように思えてくるのだった。
同じような考えがいっぱいある中で、寂しさを共有している感覚が、まるで傷の舐めあいのように感じるが、本当は共有したいと思っている一番大きい部分ではないだろうか。
「俺は、監督しないといけない立場にありながら、ちょうどその時、気になる女性がいて、そっちの方ばかり意識してしまっていたんだ。そんなに長い間ではなかったので、大丈夫だと思ったんだが、まさかそれが命取りになるとは思わなかった」