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幻影少年

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 それとも、他の人は、一人になった時に、何も思い出さないというのだろうか? そこまで割り切りができるのであれば、逆に羨ましい気がしていた。
 加藤という男は、豪傑で、あまりまわりに気を遣わない男であるが、そんな男はどこにでもいた。高校のクラスメイトにもいたのだが、今までは、自分から関わらなければそれでよかったのだが、就職して、同僚ともなれば、そうもいかない。
 もちろん、それは樋口にだけ言えることではないが、他の人も同じで、どうしても、無視できない相手になってしまったことで、溜まったストレスを解消するには、酒の肴にしてしまうのが、一番手っ取り早かったのであろう。
 加藤は、勘が鋭いところがあった。樋口は気付いていなかったが、利恵を好きになっていることを、加藤だけが気付いていた。しかも、加藤は樋口が一目惚れしていたことも気づいていた。
 それは、加藤も利恵のことを気にしていたからだった。
 利恵という女の子は、あまり男性から好かれるタイプではないと思えてきた。最初は、明るさが、男性を惹きつけると思ったのだが、どこか二重人格的なところがあり、一目惚れでもない限り、徐々に彼女のことを見て行こうとすると、次第に分からなくなってくるところがあるのだと思えた。
 樋口の一目惚れを加藤が看破したとしても、それは樋口が加藤の立場でも分かったことなのかも知れない。
 加藤は、利恵に対して恋愛感情を抱いているわけではないが、興味を持って見ていた。利恵の中に、男を惹きつける魔力のようなものを感じたのだが、魔力は、あまりにも小さいものに思えた。
 だから、一目惚れでなければ効果のないもので、ただ、一度惹きつけられると、抜け出すことのできないような吸引力を持っているものに思えた。
 そのサンプルとして目の前にいるのが樋口であり、どこか、加藤から監視されているような気がしてくるまでに、かなりの時間を要することになる。少なくとも、今の樋口には、そこまで感じることはできないでいた。
 そのことを気付かせることを遅らせたのは、美麗の存在であった。美麗が樋口の前に現れたことは、樋口にとっては、まさに青天の霹靂。それは、加藤にとっても同じことだった。
 樋口の前に美麗が現れたことなど知らない加藤は、相変わらず樋口を見つめていた。相手に視線を感じさせないようにするのは、加藤の得意とするところだったが、一旦気が付いてしまうと、視線の強さに金縛りに遭ったかのようになってしまう。それを思い知るのは、まだ後のことだったが、加藤の視線の強さを、イメージとしては最初から抱いていたのかも知れない。
 加藤という異端教師の存在を、まわりは胡散臭いと感じながら、
「自分とは、関係ない」
 という意識も手伝ってか、仲間内でのトラブルに発生することはない。
「君子危うきに近寄らず」
 という思いは、加藤にもあるのだろうが、一触即発の状態には変わりなかった。
 だが、加藤も、樋口も知らないことであったが、利恵が好きな男性は、加藤だった。樋口がそれを知れば、ショックを隠し切れないほどの動揺を受けるのは間違いないが、当の加藤はどう思うだろう。
 今まで女性から好かれたことなどあるのかないのか、得体の知れない加藤を見れば、まさに、
「美女と野獣」
 そのものである。
 野獣に憧れる美女がいてもおかしくはないと思うが、まさかこんな身近に、しかも、直接自分の感情に関わるところで存在しているなど、俄かには信じられないだろう。ただ、憧れるのは生徒である。思春期の、まだ男というものを知らない女の子が見るのだから、その感情は人それぞれ、憧れだけのものなのか、それが恋愛感情に発展するのか、何とも言えないところであった。
 樋口が加藤のことをずっと気にしないようにしていたが、一度、加藤の過去について聞かされたことがあった。
 聞かせてくれたのは、校長先生だったが、
「加藤先生は、前の学校から、こちらの学校に赴任された理由としてなんだが」
 普段、あまり入ることのない校長室のソファーに座って、何を真剣な話をされるのかと思うと、加藤の話だった。
 加藤が赴任してきて、三か月くらい経ったある日のこと、校長先生から、不意に声を掛けられたのだ。まるで世間話でもするような感覚で、
「樋口先生、少しお話しましょうか?」
 と言われたのだが、まさか校長が二人きりで話をしようなどと言ってくるとは思ってもいなかったので、思わず最悪の事態まで覚悟したほどだった。
――転任か? 解雇か?
 まさか、そんなはずはないと思いながら、恐る恐る校長室に入っていった。
「樋口君、そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「はぁ」
 いつもの笑顔を向けている校長先生だったが、緊張感が止まらなくなっていた。それを察したのか校長先生は、
「さっそくだが」
 と言って、話を切り出したのだ。
 予想もしなかった加藤の話に、拍子抜けした樋口を見て、校長先生は、
「そんなに緊張しなくてもいいと言ったのに」
 と声を掛けてくれたが、その顔は苦笑いしていた。そして、すぐに真顔に戻ると、
「加藤先生の前の学校である事故があったんだが、その問題の責任を取る形で、こちらの赴任になったんだよ」
「どういうことですか?」
「学校からの遠足で、登山があったんだが、加藤先生が担任していたクラスの男の子が一人、行方不明になったことがあってね。それで、登山隊を組織して、捜索してもらったんだが、とりあえずは見つかって、命に別条はなかったんだけど、先生の監督不行き届きということで、PTAや教育委員会から、問題になってね。その責任を取らされた結果になったんだよ」
 全国に無数の学校があり、たくさんの生徒がいるので、そういう事件は日常茶飯事なのかも知れないが、それが自分の身の周りで起こる可能性はどれくらいのものなのだろう。身近な人に起こったということは、自分に起こらないとは限らない。他人事というわけにはいかない。
「どうして、この話を私に?」
「このことは一部の先生しか知らないことなんでが、樋口先生は口外することもないだろうし、他の先生に話すと、何かあった時に、その話が蒸し返されそうになる気がするんですよ。知っておいていい人と、知らない方がいい人とをしっかり切り分けておかなければいけないと思っています。とりあえず、三年生の担任で知っているのは、樋口先生だけですね」
 その時樋口は、三年生の担任だった。
 加藤は、二年生の担任をしていたが、二年生の担任は皆知っていることのようだった。樋口の通っている学校では、学年ごとの担任の絆を強くすることが教育方針の一つで、生徒同様に先生も持ちあがりのシステムを取っているのだった。
 それにしても、生徒が行方不明になった時の教師の心境とは、どういうものだろう、いくら楽天的な人であっても、肝を冷やすに違いない。楽天的な人ほど、こんな時どうしていいかを考えていないだろうから、頭の中がパニックになるかも知れない。
 だが、それは樋口の考えであって、こんな時でも楽天的な考え方の人というのは、
「何とかなるでしょう」
 と思っているかも知れない。
――心臓に毛が生えている――
作品名:幻影少年 作家名:森本晃次