幻影少年
綾香先生は、利恵のことを気にしているようだったが、医務室で一緒にいる時は、友達と話をしているような感覚なのではないかと思っている。貧血がウソだとは言わないが、二人だけの世界を医務室の中に作っているのは事実で、そこで語られる内容は、人に聞かれたくない話なのかも知れない。ただ、そこには深刻なものはない。少々気心が知れた相手であっても、利恵は自分の中にあるわだかまりは、そう簡単に、他人に話してしまうことはしないだろう。
綾香先生は、女性にも人気があった。清楚な雰囲気を白衣で包み、さらに凛々しさを醸し出している。綾香先生のような女性に対して憧れを持つのは、特に新入生には多いことだろう。
利恵は、いつも一人でいることが多いので、一人が好きなのだろうと思っていたが、人恋しいと思うこともあるのかも知れない。話をする必要もなく、ただ、そこにいてくれるだけで安心するような相手、それが綾香先生だったのだろう。
利恵にとって綾香先生は、憧れであり、友達のような存在なのかも知れない。綾香先生は、利恵が自分に対して抱いている感情を分かって接しているのではないだろうか。医務室のベッドの中で寝ている利恵、そして、利恵に構うことなく、自分の机で仕事をしている綾香先生。その時の利恵の安心しきったような表情が目に浮かぶ。きっと安心して熟睡していることだろう。
利恵の家庭を知らないので、何とも言えないが、利恵の性格は家庭環境に大きな影響があるように思える。
利恵の表情は明るく、まわりに安心感を与える笑顔を見せるにも関わらず、笑顔を振りまいても、それが自分にいい意味で戻ってくることはない。本当は一人で寂しいのだろうが、一人を楽しんでいるように見られるのは、本人の意図するところではないように思えた。
「私は、まだ担任になってから、少しなので、まだ生徒の知らないことも多いんですよ。特に水沼利恵という生徒は、分からないことが多いですね」
そう言って、綾香先生を見ると、今度は握っていた筆記具を机の上に置いて、完全に意識をこちらに持ってきたようだ。
「水沼さんは、他の人と違うところが表に出てきているようですけど、本当は感性が他の人と違うだけで、彼女も普通の女の子ですよ。それでも樋口先生が、違うとおっしゃるのであれば、どこか贔屓目に見られているところがあるのかも知れませんね」
綾香先生の言い方は、どこか挑戦的だった。確かに凛々しさのある先生ではあるが、ここまで挑戦的で、挑発的な表現をする人ではない。何か思うところがあったのだろうか?
「別に、贔屓目はないと思いますが、綾香先生も、彼女の中の感性が、他の人と違うとお考えだったんですね」
利恵の感性の違いは、接していれば分かるものだった。ただし、それは全員が分かるというものではなさそうだし、長く付き合っていれば、分かってくるというものでもない。
「そうですね。そこが少し彼女にとっては、損な性格になっているのかも知れませんね。お話していると、考えが通じるところも結構あり、ただ、それは話さないと分からないことのようですね」
樋口は少し楽になってきたので、
「先生、ありがとうございました。そろそろ、戻ります」
介抱してもらったことに「ありがとう」なのか、それとも、利恵について教えてくれたことに「ありがとう」なのか、綾香先生には分からなかっただろう。樋口の頭の中は単純なので、介抱してもらったことに対してのお礼だけだったのだが、綾香先生は、そうは思わなかった。
――余計なことを言ってしまったかしら――
と、後悔したが、他の生徒がやってくると、すぐに忘れてしまっていた。
美麗は高校時代、樋口のことをクールで、誰にも分け隔てない先生だと思っていたが、美麗の方に、かなりの贔屓目があっただろう。ただ、それは、聖職者と呼ばれることを嫌っていたことが、美麗の中で、樋口を「理想の教師」に仕立て挙げたのかも知れない。
樋口は、美麗のことを意識していなかったと思っているようだが、本当は、美麗だけに限らず、教え子に手を出すことは、淫行にも繋がり、自分の人生を自分の手で破滅させてしまうことになるので、手を出さないように心掛けたのだ。
「こんなに辛いなら、先生にならなければよかった」
と思うほどの辛さがあった。
意識する女の子には、卒業してから、告白すればいいのだろうが、卒業してしまうと、今度は意識していた女の子への気持ちが冷めてしまう。卒業すると、それまで校則にしばられ、大人しくしていた服装や化粧、髪型が、一気に大人びて、派手になってくる。
「俺は、そんな彼女を意識したんじゃない」
と、地味な女の子が好きだということを、思い知ることになり、実に皮肉なことだった。さらに、その時自分には教え子がいて、彼女たちの中に、またしても自分が好きになる女の子が現れないとも限らなかった。
ただ、そこに一目惚れはない。一目惚れは利恵だけだったのだ。もちろん、今後他に現れないとは言いきれないが、利恵が特別なのは間違いなかった。
樋口が利恵を意識し始めたことを、知っている人間は、少なくとも一人はいることが分かった。それは綾香先生で、何かを相談するには、少し敷居が高そうだが、決して口外するようなことはしないだろう。攻撃には不向きだが、防御には絶対的な相手だという見方もできる。
だが、実は利恵のことを樋口が意識していることに気が付いている人がもう一人いたのだ。
それは、樋口の同僚である加藤先生だった。
加藤は、この学校に二年前に赴任してきた。年齢的には樋口よりも五歳ほど上だが、中年の雰囲気を醸し出していた。髪の毛は肩くらいまであり、少し茶髪っぽい、別に派手な雰囲気はない。むしろダサいと思われているかも知れない。男の樋口から見ても、
――もう少し、どうにかならないか――
と思うほど、センスという意味では、最悪に見えた。
これも偏見で見ているからかも知れないが、いつも何を考えているか分からないところがある。集団行動が苦手で、いつも一人でいるような男の典型であった。
加藤は、樋口から嫌われているだけではなく、他の先生からも嫌われていた。性格としては、無骨で、言いたいことは、何も考えずに言葉にするという無神経なところが、まず、心証を悪くするのだ。
無骨なところこそ、男らしいところだという大きな勘違いをしているところがあり、それもまわりの人間、加藤を見る目を共有していた。何人かで呑むことになると、いつも加藤の悪口が酒の肴になっているが、それは、共通の話題として、誰も疑わないからだった。そこから勝手な憶測が始まるのだが、樋口は参加しない。加藤に対して抱いている皆の意識の共有を、
「もっともなことだ」
と、思いながらも、人の悪口に参加することは、まるで自分も惨めにしてしまいそうで嫌だった。
「どうして、簡単に人の悪口が言えるのだろう?」
単純に、ストレスの発散だけを考えているのだろうか? その時は確かにストレス発散になってスッキリするのかも知れないが、一人になった時、その時のことを思い出すと、何とも言えないやりきれない気持ちになるのではないかと思うのは樋口だけだろうか。