幻影少年
そのことを分かっている人が、果たしてどれくらいいるだろうか? 少なくとも、綾香先生のことを真剣に好きになった人には分からないかも知れない。むしろ、憧れを持った目で見ている人の方が分かっているのではないだろうか。
樋口が綾香先生にお礼を言った時、綾香先生の顔に浮かんだニッコリとした表情。それを見た時に感じたのだ。
樋口は気絶していて、ひょっとしたら、寝言を言ったのかも知れない。
目が覚めた時、自分が気絶していたことを一瞬で理解し、綾香先生に介抱されたことも分かっていた。そして、その間に夢を見ていて、その夢に出てきたのが、美麗なのか、利恵なのか分からなかったが、何か寝言を言ったのも意識としてあった。
寝言というのは、なかなか言葉になっていないだろうから、どんな夢を見ていたのか分かるはずもないと思ったが、相手は綾香先生なのだ。ひょっとしたら、分かったかも知れないと思うと、恥かしさで顔から火が出そうだった。
もちろん、知られてはいけないことだった。自分にとっては、
「最高国家機密」
に近いものであり、厳重にカギの掛かった金庫に閉まって、誰にも分からないところに封印しなければならないものだ。
夢の内容が美麗であれば、昨日の思いが噴出したのだろうが、怖いのは一線を超えなかったことが、自分の中で欲求不満として残っているかも知れないと思ったからだ。
逆に夢に出てきたのが利恵だったらどうだろう?
実はこっちの方が、樋口には怖かった。
想像だけの中で、勝手な思い込みで描いた利恵、夢の中では、妄想がとどまるところを知らない。実際に、自分が具体的な相手に妄想を抱くようになったのは、利恵が最初であった。学生の頃から妄想を抱くことはあっても、具体的な相手は頭にはない。もちろんモデルはいるのだろうが、具体的な相手がいない場合も妄想は留まるところを知らないだろう。
しかし、相手の顔が浮かんでこない場合と、実際にハッキリとした顔を思い浮かべる場合では、明らかに違っている。顔が浮かんで感じる妄想には、夢の中であっても、身体が反応するからだ。
綾香先生に気付かれて恥かしい思いをするのは、反応した身体と、寝言が結びついた時、ハッキリと夢の内容が分かるのではないかと思えるところだ。
――ある意味、一番知られたくない相手――
それは、知られたことで、一番恥かしいと思える相手が、綾香先生だったからだ。そして今樋口のまわりで、一番知ることができる相手が誰かと聞かれると、
「綾香先生」
と答えるであろうことも分かっているのだ。
綾香先生がニッコリと笑ってくれたのが、本当であれば、救いに思えるのだが、果たして夢を知られなかったのかどうか、分からない。ついつい笑顔が引きつってしまって、綾香先生を探るような目で見てしまっている自分に、嫌悪感も抱いている樋口だった。
そんなことを考えながら、隣のベッドを見ると、シーツが乱れていた。さっきまで、そこに誰かがいたような雰囲気だが、一体誰だったのか、気になるところである。
「綾香先生、こっち、誰かいたんですか?」
「ええ、先生のクラスの水沼さんが、さっきまでいたんですよ。貧血を起こしたようで、でも、すぐによくなって出て行きました」
「水沼って、水沼利恵のことですか?」
「ええ、そうですよ。彼女、どうやら貧血をよく起こすようで、先生も気を付けてあげてくださいね」
綾香先生は、衛生器具の手入れをしながら、後ろ向きで、樋口に話した。そんな時に見せる綾香先生の後ろ姿は大きく見える。
――女と言っても、やっぱり医者なんだな――
頼りがいのある背中を見ていて、ベッドで横になった状態から、安心感を与えられる気がしてきた。
「彼女は、僕が運ばれるよりも、先にいたんですか?」
「ええ、いましたよ。隣に運ばれてきたのが、樋口先生だったので、大層驚いていましたけどね。ただ、他の人が見れば、それほど大きな驚きには見えなったでしょうね。驚きを隠そうとしているようでしたから」
綾香先生は、聞いてもいないことを話してくれた。
だが、本当は聞きたかったことである。先読みして話をしてくれたのか、それとも、何も考えずに、自分の意見を述べただけなのか。綾香先生のことなので、先読みして話してくれたのであろうが、そこまで先読みされてしまうと、可愛げがないような気がして、複雑な心境に陥るのだった。
「で、彼女は大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。貧血が多いのも、別に身体のどこかが悪いというわけではないようなので、精神的なものなのかも知れないですね。このあたりになると、医者の私よりも、教師である先生方のお役目になるんでしょうけどね」
精神的なこととなれば、確かに綾香先生の領域ではなく、こちらの領分だ。
「ありがとうございます。僕の方でも、肝に命じて、彼女を見ていくことにしましょう」
樋口はどうして自分が貧血を起こしたのか分からなかった。確かに、最近、立ちくらみを起こすこともあったので、気を付けないといけないとは思っていたが、気絶するほどの立ちくらみはなかった。
それに、座っていて、急に立ち上がったり、ずっと炎天下に立っていたりと、貧血を起こしそうな状況だったわけでもないのに、不思議だった。
自分のことはさておき、気になるのは、利恵のことだった。
小柄で華奢な身体の利恵は、確かに貧血を起こしやすいタイプに見える。だが、顔色がいつも悪いわけではない。むしろ、元気な雰囲気が利恵のいいところだと思っていたので、貧血を起こすようなタイプに感じられなかったのは、教師として、ちゃんと生徒を把握できていなかったということは反省すべきであろう。
いつも一人でいる利恵を見ていることも、気付かなかった理由の一つかも知れない。
友達もほとんどおらず、いつも一人だ。自分から友達を作ろうとしないと、なかなか友達はできるものではない。大学という環境であれば、自分から友達を作ろうとしなくとも、一人友達ができれば、その人から友達の輪は広がっていくだろう。だが、友達がいないのは、自分から友達を作ろうとしないからで、それだけ孤独に対して強いと思っていたからだ。
孤独に強いからと言って、貧血を起こさないというわけではないのだが、孤独に強い人は、肉体的な忍耐にも強さを発揮すると思っていた。偏見ではあるが、根拠も何もなかった。
「綾香先生は、水沼のことを、よくご存じのようですね」
「ええ、時々お話することもありますからね」
一瞬、作業している手が止まった。さっきまでの会話は、後ろを気にすることもなかったのだが、今度は、明らかに後ろ、つまり、ベッドの上の樋口を意識していた。利恵のことは、さっきの話で終わったと思っていたのを蒸し返したからである。
貧血のことを気にしていると言った後、少し間があったことと、利恵のことを、改めて、しかも漠然と聞いていることに対して、ビックリしたのではないだろうか。