幻影少年
と、感じながら妄想していると、今日、絵に気が付いたことが、ただの偶然ではないように思えてくる。
もっと言えば、今日ここの喫茶店にきたのも偶然ではないようにも思えてくる。
偶然という言葉、あまり好きではないが、嫌いなわけでもない。好きではない理由は、偶然の出来事を信じている自分があまり好きになれないという意識はあるから、偶然という言葉自体を、好きになれないと思ったのだ。
だが、偶然の出来事が起こった時、
「最初から、予感があった」
と、感じる時と、
「本当に偶然なんだ」
と、思う時の二つがあった。
最初から予感があった時に、偶然を信じる自分が、好きになれないのであって、素直に偶然を感じる自分は好きであった。偶然の出来事に、身を委ねてみようという意識があるからだ。
今日の樋口はいつもと感情が違っていた。
最初から予感があったような気がしているのに、そんな自分を好きでいられた。偶然に身を任せることができて、しかも、時間があっという間だったような気がする。
本を読んでいたからなのか、それとも、美麗の感覚がまだ身体に残っているからなのか、身を委ねているものが、一つではないような気がして仕方がない。
時計を見れば、そろそろ学校に行かないといけない時間になっていた。いつもより遅い時間の出勤なので、精神的にはかなり余裕があったが、今まではここで一旦気合を入れて、ギアの入れ替えを必要としたが、今日はこのままの気持ちで学校に行こうと思った。頭の中にはすでに利恵のことがあったからだ。
普段の朝、ギアの入れ替えを行うのは、頭の中に利恵を復活させるためだった。
学校から帰ってきて、一旦、利恵のことを頭の中からリセットする。それが樋口の日課となっていて、一度リセットしてしまわないと、いつまでも学校にいる感覚になってしまい、精神的に疲れが倍増してしまう。
その日はリセットすることなく学校に行けるのは、精神的に気が楽だった。
――絵を見たことが、安心感を与えてくれたのかな?
美麗のこともあり、利恵への思いも頭にはある。普通なら、複雑な思いを抱いたままの出勤になるのだが、その日は、自然だった。まるで絵の中の自分がすべてを分かってくれていて、複雑な思いを吸収してくれたのかも知れないと思った。
学校までは一時間近くかかる。朝の通勤時間の間は、かなりの疲れを伴うのに、ついてみればあっという間に感じるが、今日などは。電車の中は空いていて、通勤途中ではあっという間に着いたような気がしたのに、後から思えば、通勤時間に要した時間は、長かった感覚であった。
授業が始めるまでの準備は、昨日のうちに済ませていたので、普段であれば、昨日のことを思い出せば、すぐに教室に行っても生徒の相手ができると思うのだが、今日は、昨日のことが思い出せないのだ。
実際に昨日のことを思い出そうとしたのだ。カリキュラム表を見て、昨日用意した資料に目を通した。それでもすぐには思い出せない。
――普段なら、中を見るまでもないのに――
と思うのに、どうしたことだろう?
資料を開いて、中を読んでみたが、何かしこりのようなものが頭の中に引っかかっていて、集中できない。
集中できないものを、強引にでも集中させようとすると、汗を掻いてくる。
汗を掻くまで、集中できないことに焦ることは、それほど少なかったわけではないが、時間が経てば、集中できてくるものだ。
それなのに、今日は、集中する時間を重ねても、まったく先に進まない。一生懸命に水の中で水を掻いているにも関わらず、前に進むことができない時と似ている。
今の心境は、身体が触れているものが空気なのか水なのかの抵抗感の違いがあるほど、余計な力が、身体の中から湧いて出るような気がしていたのだ。
教員室で、じっと下を向いて資料に目を通していると、意識が薄れてくるのを感じた。
――やばい――
と思い、頭をあげて、教員室を見渡したが。いつもより狭く感じられた。
そのわりに、天井はやたらと高く、まるで美術館か、図書館にいるような感覚がしてきた。
――空気が薄い――
とっさにそう思ったが、思ってしまったのが災いしたのか。どうやら、そのまま気を失ってしまったようだ。気が付けば、医務室のベッドの上で寝かされていたのである。
「ここは?」
目を覚ました瞬間、飛び込んできた天井が、真っ逆さまに落ちてくるような錯覚に陥っていた。
「はぁはぁ」
過呼吸を引き起こしていたのは、気絶する前に感じた、
――空気が薄い――
という意識、それが強かったからだ。
ここが、医務室の天井であることは、すぐに分かった。今までにこのベッドで寝かされたことが一度もなかったのに、どうして分かったのか、不思議だった。
天井が落ちてくる錯覚のおかげで、身体が痙攣を起こしそうになるのを、寸前で堪えていた。
――落ち着かなければいけない――
と、すぐにゆっくりと大きく深呼吸をしたのだが、その声で、医務室の先生に樋口が目を覚ましたことを教えたようなものだった。
「樋口先生、大丈夫ですか?」
医務室の先生は、女医さんで、生徒には人気があった。いや、生徒だけではなく、男性教員の中でも、彼女のことを好きな人もいるようだ。生徒からは憧れのように見られていて、先生たちからは大人の女性のイメージを与えている。男性教師はいつも生徒しか見ていないので、余計に大人の色香を感じるのだろう。
苗字で呼ぶよりも、綾香先生という親しみを込めた名前で呼ぶ人が多い。樋口もその一人だったが、綾香先生に対しての恋愛感情は、他の人ほど強くはなかった。
「ありがとうございます。だいぶいいみたいです」
そういうと、綾香先生はニッコリと笑ったが、この表情に惹かれるところがあるのだ。この表情が、他の人を惹きつけて止まないのだろう。樋口は、他の人に比べて、クールというわけでもない。逆に人一倍惚れっぽい性格だと思うのだが、なぜか綾香先生に対しては、そこまで感じない。
――この表情を最初に見てしまったからなのかも知れないな――
これも一種の一目惚れなのかも知れない。
この表情を好きになったのだが、それは最高級の好感を持ったということであって、恋愛感情とは違うものだった。そのことに気が付くまでに少し時間が掛かったが、分かってしまうと、自分がどんな女性を好きになるのか、あるいは、人を好きになるという感覚がどういうものなのかが、感覚だけではなく、頭の中でも漠然としてではあるが、分かるようになってきたのだった。
綾香先生の魅力は、それだけではなかった。
男心が分かるのか、それとも、見ていて、相手の気持ちが分かるのか。時々、ドキッとすることをいうことがある。ただ、すべてを見透かされているようで、怖くなることもあるが、見透かされても、恥かしいとは思うが、怖いとは思わない。実は、綾香先生の魅力は、相手の気持ちが分かるところではなく、見透かされても、怖いとは思わないところにあるのだ。