幻影少年
それが誰なのかというと、他ならぬ利恵だった。利恵に対して一目惚れだと思っていたが、自分にこんな記憶が残っていたなど忘れていたのに、思い出したのは、本当に偶然だった。
樋口は忘れっぽい性格である。
それだからであろうか、利恵を好きになったのを一目惚れと思い、こんな思いを以前にも一度味わったことがあると思ったのだった。
だが、実際に学生時代に感じた思いの方が、
「前に味わった気がする」
という思いが強かった。以前に感じたと思ったのは、味わった気がすると言う気持ちになったことだったのかも知れない。
また、今回、美麗が訊ねてくることも、予感としてあった。
美麗を抱いた感触、肌の細かさを感じたが、これは、大学時代に見た女性に感じたイメージに近かった。
最後の一線を超えなかったのは、あまりにも肌がきめ細かかったからなのかも知れない。抱きしめた瞬間、まるで吸盤に吸いつけられたような感覚があり、逃げることができない錯覚を覚えた。
「この身体に溺れてしまうかも知れない」
と思ったのだが、溺れるのが怖かったというよりも、美麗が自分の肌に溺れている男性を目の前で見て、どんな感覚に陥ってしまうかが怖かったのだ。
まるで魔性の女のようなイメージを持って、樋口を美麗から離さなくしてしまうかも知れない。吸盤の大きさが微妙に変わることで、性感帯を微妙な力で強弱をつけることが、男を魅了して止まないのだろう。
樋口は、美麗が帰った後の一人の部屋にいるのが嫌だった。寂しさから一人でいるのが嫌だったわけではなく、少し沸騰してしまった頭を冷やしたいという気持ちもあったのだろう。
家を出てから、どこに行くという当てもなかった。ただ駅まで行って、それまでにどこに行こうか決めようと思ったのだ。樋口の性格としては、あれこれ悩むのであれば、先に何らかのアクションを起こして、そこから選択肢の幅を狭めていけばいいという考え方であった。
駅までは十五分くらいの距離、考え事をするにはちょうどいい。それだけあれば、どこに行こうか思い浮かぶと言うものだ。
駅までの道のりを歩いていると、小腹がすいたことに気が付いた。一緒に朝食を摂ろうかと美麗に声を掛けたが、
「いいえ、帰ります。今日は本当にありがとうございました」
と、一言いって、部屋を出て行った。
その姿をぼんやりと眺めていたが、口調は淡々としていたが、今まで印象にあった美麗とは違い、感情が表に出ているように見えたのにはビックリした。
美麗が学校で見せていた表情というと、ハッキリしたものだけで、露骨に嫌な顔をするイメージしか残っていなかった。
「この娘に楽しいと言う感覚はあるんだろうか?」
と、感じたことを思い出した。
美麗にとって、楽しいという感覚が欠如しているのではないかという思いは、今日も実はあった。一緒にいて、ずっと抱き合っていても、安心感と満足感は感じたが、やはり、楽しいという思いを起こさせない雰囲気だった。自分に欠如しているだけではなく、まわりにも感じさせないというのは、よほど、心の中に何かトラウマを抱えているのではないかと思えたのだ。
一緒にいる時は、情が移って、美麗のことだけを考え、利恵への思いは、すっかり消えてしまっていた。しかし、美麗が帰ってしまうと、目を瞑って浮かんでくる顔は、利恵の顔だった。
「どうして、今さら」
せっかく、自分のことを好きだと言って、勇気を持って訊ねてきてくれた元教え子を受け入れる気持ちになったのに、帰ってしまった後、他の女性を思い浮かべ、明らかに記憶が薄れていく状況に陥ってしまったことに、樋口は正直戸惑っている。
樋口は、いつも駅まで行く時、何かを考えながらの時が多い。その日も、どこに行こうかと思いながら、その裏で、他のことを考えていた。
同時に重複して何かを考えることができるのは、いいことなのかも知れないが、その分、本当に考えなければいけないことが疎かになってしまうようで、気になっていた。だから、考え事はなるべく似たようなことを考えないようにしている。頭の中で考えが錯綜してしまうからだ。
聖徳太子は、一度に十人の話を聞けたという。そんなバカなことができるはずがない。脳がそれだけ必要だからだ。しかも、一つ一つをコントロールするためには、心もそれだけの数がいるだろう。まったくもって信じがたい話だ。
樋口は、利恵のことを思いながら、
「今日は、喫茶店で、モーニングだな」
と、駅に行く途中に喫茶店があるのを思い出した。
以前に一度入ったことがあったが、すぐに出た気がする。時間がなかったからだったが、その時に店のイメージを何とも感じなかったのだ。今行けばどういう気持ちになるのかを確かめてみたいという気持ちがあったことで、喫茶店に向かう道の角を、気が付けば曲がっていた。
最初に見た時は、大きな店だと感じたが、今日来てみると、思っていたよりも、少し小さかった。こじんまりとした感じで、表の駐車場も五台止めればいっぱいになりそうで、中の雰囲気も想像できるというものだ。
それでも中に入ると、意外に広さを感じた。奥行きはあるようで、カウンター席とテーブル席、それぞれにスペースもゆっくりと作ってある。
朝日が眩しかったせいか、中に入ると薄暗く感じた。薄暗く感じたもう一つの理由として、表は白壁で目立つように作ってあるのに、店内は、木造のような造りにレトロな雰囲気を醸し出させる造りになっていた。
モーニングがスクランブルエッグなのは嬉しかった。目玉焼きも好きだったが、その日はスクランブルエッグの気分だった。その時々で食事の好みが変わるのも、樋口の特徴だった。
コーヒー専門店のような、本格的な豆から挽いたコーヒーは、店内に充満している香りを彷彿させる。コーヒーを楽しむ気分のほとんどは、香りによるものであった。香りは、完成品よりも、挽く時に香ってくるものの方が、雰囲気を湧き立てさせるものだった。
琥珀色のコーヒーに砂糖を入れてかき回すと、香りを感じている自分が、次第に落ち着いた気分になってくるのが分かった。
「コーヒー専門店のような趣だな」
自分の知っているコーヒー専門店は、木造でレトロな雰囲気の店が多かった。元々、レトロな雰囲気をそのままにして、表だけ、白壁に塗り替えて、派手な雰囲気に、店のイメージを改造したのかも知れない。
大学の近くにある喫茶店には、同じような喫茶店が多かった。店内のスピーカーからは、重低音で、クラシックが流れてくる。逆に明るくて白を基調にした店内からは、ジャズが流れてくる雰囲気があったのだ。
樋口は、クラシックが好きだった。重低音で暗い店内で聴くクラシックも嫌いではなかったが、軽い感じのクラシックの方が好きだった。早朝の目覚めには、軽いクラシックで目を覚ますことが好きな樋口は、目覚まし代わりに、クラシックを鳴らすようにしている。東向きの部屋なので、カーテンからの木漏れ日の眩しさが、クラシックの音色を引き立て、少しでも気持ちのいい目覚めにしようと心がけていた。