幻影少年
ましてや、自分たちの相手は、商売の商品ではないのだ。生きている人間相手なのだから、自分がうちに籠ってしまっては、人を相手にすることなどできないに違いない。
夏休みや冬休みなどの長期休暇の間に、先生は街に巡回に出る。生徒が非行に走らないかを監視するためだ。
そんな街の様子を、
「聖職者」
と自認している人たちはどう感じるだろう。
「けがらわしい」
と感じるだろうか。それとも、自分には関係のない世界だと思うだろうか。樋口は、けがらわしいと思う方が、まだ人間らしくて好きだ。無下に嫌うのはどうかと思うが、それでも、何も感じないよりもマシだと思うのだった。
樋口は、美麗が来てくれたことで、自分が聖職者ではない、先生になれそうな気がした。利恵のことが気になるのはしょうがないとして、目の前にいる美麗に答えることに自分の気持ちを集中させようと思ったのだ。
「樋口先生」
「何だい?」
「またお邪魔していいですか?」
「もちろんだよ。そのつもりで、今日は来てくれたんだろう?」
「ええ」
一線を超えることなく、樋口のベッドの中で、抱き合って一夜を過ごした。こんな場面を他の人が見たら、一線を超えていないなど、誰も信じることができないだろう。美麗はそれでも安心した顔になり、上気したその顔に、樋口は唇を重ねる。
一線を超えることがなかったが、何度重ねたことか分からない唇の味は、ずっと忘れることはないだろうと、二人で思っていた。
「じゃあ、先生。また来ます」
身繕いを整えて、玄関先で、ニッコリ笑う美麗に、樋口は最後の口づけをする。それでことばはすべて終わり、美麗は踵を返し、振り返ることなく、駅へと向かったのだ。その後ろ姿を見えなくなるまで見つめる樋口。樋口にとっては至福の時間の最後に訪れたクライマックスに思えた。
角を曲がって駅に向かう美麗。角を曲がったところで、思わず涙が目頭を熱くするのを感じた。
「嫌だ。どうして泣いてるのかしら?」
一線を越えたわけではない。樋口が無茶をする男性でないことは分かっていた。だが、実際に無理なことをしなかった樋口の優しさに癒されたのも事実だが、逆に何もされなかったことで、少し物足りなさも感じた。
「私って、そんなに魅力ないのかしら?」
と、女としてのいじらしさを感じた、
樋口の前では、もっと女らしいところを見せられると思ったのに、自分としては、想像以上に淡白だったのを感じた。
「清楚だなんて、思ってはいないわよね」
と苦笑いをしたが、樋口の心の奥に、清楚な女性に対して、特別な感情が隠されていることを、美麗は知る由もなかっただろう。
樋口のことを考えるのは、電車に乗ってからやめようと思った。余韻に浸っていたいと思う気分もあるが、あんまり考えすぎると、自分が告白したことに対して、確固たる返事をしてくれなかったことが気になってしまう。
「だけど、身体で示してくれたじゃない」
と、自分に言い聞かせてみるが、それは慰めにしか感じられなかった。
身体で示してくれたと言っても、一線は越えなかった。普段なら、優しさとして片づけてしまうのだが、告白した方からすれば、中途半端に感じられる。
男は、理性を保ったと思っているかも知れないが、それは女心を分かっていない証拠。もっとも、樋口に女心の理解を求めるのは最初から無理な相談だと思っていた。
樋口が女心を分かっているようなら、好きになんかなっていない。
女心を分かっていて、それを手玉に取るような男性は、こっちから願い下げだと思っていた。
樋口のような先生、いや、男性は美麗には初めてだった。
樋口を見ていると、思わずニッコリとしてしまうほど、どん臭いところがあった。
「男性は、頼りがいがないといけない」
という発想は、母親のもので、美麗も反対ではなかった。しかし、それ以上に頼りがいだけで、男性を判断できないのではないかという思いもあり、母親の考えすべてに同調するものではない。
しっかりとした男性に対しての考えを持っていても、付き合い始めてすぐに別れることもあれば、成田離婚などということもあり得る。お互いの性格の相性が大切なことはいうまでもないだろう。
女心を分かっている男性というのも、美麗には信じられないところがあった。胡散臭さといっても過言ではない。
「君のことを思って」
と言っても、相手からすれば、
「有難迷惑なのよね」
という話を女の子たちだけの会話から、よく聞かされる。
美麗にも、中学時代には寄ってくる男の子がいたが、その男の子は、美麗に対して、
「優しさの押し売り」
そのままだった。
「押しだけでは、女の子は感動しないものなのよ」
と、言いたい言葉をぐっと飲み込み、美麗は、中学時代までは、男の子を異性として意識していなかったように思う。それだけ、異性に対しては晩生だったのだ。
どん臭い雰囲気が情けなさを醸し出すものではなければ、それも個性の一つ、その人の魅力だと感じるのは、美麗だけだろうか。樋口はまさにそんな男性であり、男性の友達も一見少なそうに見えるが、意外と多いのかも知れないと思った。
だが、実際の樋口に、友達は皆無だった。どん臭い雰囲気は見た目そのままで、まわりからは情けない男だと見られていたようだ。
情けない雰囲気を醸し出していると、失敗は致命的で、誰からも相手にされなくなるという危機感を、樋口はいつも抱いていた。
ただ、楽天的な性格でもあり、人から嫌われたとしても、気にしないところがあった。大学時代に友達を一気に増やしたことがあった。行き過ぎる相手に、振る手の数が、まるでその人のステータスでもあるかのような感じで、完全に「質より量」だったのだ。
大学では、文芸サークルに所属し、小冊子を発行しているところが気に入っていた。ポエムを書くことがあった樋口は、小冊子に自分の作品が載るのを楽しみにしていたのである。
同じお金を使うなら、自分の作品を発表できる場を与えてくれるところで使いたいと思うもので、作品は、同人誌仲間では、それなりに評価してくれていた。
学園祭で、小冊子を配ったが、受け取るまではしても、数十メートル行ったところのゴミ箱にポイする人が多かった。それでも一生懸命に配っていたが、それでも、さすがに目の前で捨てるところを見てしまったら、思っていたよりも、落ち込みが激しかった。
ただ、中には大切に読んでくれている人を見ると、救われた気がした。まわりをたくさんの人が行き交う中で、まるでまわりのことなど気にする様子もなく、ベンチに座って、本を読むことに勤しんでいる。
――一体誰と来たのだろう?
一人でじっと本を読んでいる。
「誰かを待っているのかな?」
という思いが強く、待ち人を意識しながら、彼女をじっと見ていたが、誰も近づいてくる様子はない。
どれくらい経ったのだろう? 最初に焦れたのは、樋口だった。
「何を読んでいるんだい?」
顔を覗き込むと、どこかで見た顔。それは後から感じたことで、本当は逆で、今知っている人に、彼女は似ていたのだ。