短編集33(過去作品)
道化師
道化師
仁科五郎はいつものように午後七時に仕事を終えて、いつものように帰途についていた。仕事自体はいつも同じ時間に終わる。日々処理もあるのだが、大体が日にちのまたがる仕事が多いので、ある程度のところでキリをつけて切り上げないと帰れなくなる。そのため切り上げる時間を大体午後七時と決めていた。最初から決めているので、仕事を終える時間にほとんど毎日狂いはない。テンポを考えて仕事をしているからだ。
要領は決していい方ではない仁科は、午後七時に終われるからといって、いつも同じ心境で帰れるわけではない。
少し余裕があるので飲んで帰るか、疲れている時はコンビニの弁当で済ませるかだ。
その日の仁科は少し精神的にも余裕があったので、飲んで帰ろうと最初から決めていた。
飲んで帰ろうと思うには体力的な面より精神的な面の方が大きい。疲れていても精神的に飲みたい時もあるからだ。その日はそんな心境だった。
最近は会議ばかりでなかなか自分の仕事が進まずイライラしていた。しかしその日はまったく会議もなく、自分の仕事をテキパキとこなすことができたので、体力的には疲れたが、精神的には充実していた。その証拠に時計を見て、
――ああ、もうこんな時間か――
まだ午後三時くらいだと思っていたら、すでに五時を回っていた。もしその時に時計を見なければひょっとして午後七時が分からなかったかも知れない。
普段から仁科は時計を気にする方だ。一時間おきくらいに確認している。しかしその日は昼休みを別にして、初めての時計確認だった。それだけ充実していたのだ。
仕事が充実していれば疲れはあってもそれは体力的なものだけで、精神的にはそれほどでもない。だからこそ飲んで帰りたくもなるというものだ。
仁科は行きつけの飲み屋を持っている。炉辺焼きと焼き鳥をミックスしたような店で、家の近くにあるのだが、こじんまりとしていて、サラリーマンは結構珍しい。どちらかというと地元の土建屋や商売人の店主が夜の集まりに利用していたりする店である。集まりは奥の座敷でしているので、それほど違和感はない。時々笑い声などが聞こえる程度で、そんな時カウンターは静かなものだ。
名前を焼き鳥「のんべ」という。いかにもという名前であるが、
――俺には似合わない名前だな――
といつも看板を見ながら苦笑いをする仁科だった。
それほど飲める方ではない。ビールならジョッキー一杯も飲めばべろんべろんである。たまには日本酒を飲むが日本酒なら一合程、嗜む程度といっていいだろう。
午後七時といえば完全に日は落ちていて、夜の帳が下りている。街はネオンサインが賑やかで、それでも街で飲んで帰ろうと思わないのは、自分がアルコールに弱いのを熟知しているからだ。
最初はそうでもないのだが、しばらくして一気に回ってくる。なかなか自分のペースが掴めないので、安心して飲むにはどうしても家の近くにしようと思うのだった。
帰り道、駅まではいつもまわりを気にすることなく歩いている。実際に会社から駅まではそれほど繁華街を抜けるわけではないので、目に付くものはあまりない。一本筋が違えばそこはネオン街で、会社の人たちは、
――皆そっちで飲んでいるんだな――
と思いながら家路を急いでいる。元々結構飲める連中が若手には揃っているので、アフターファイブは皆一緒に帰っているところを見ると、きっと飲んでいるに違いない。ただの想像ではあるが……。
仁科は自分がすることでも、すぐに「他人事」として考えるところがある。それが逃げに繋がるのか、それとも自分を正当化させたいのか分からないが、決していいことではないだろう。それも彼の特徴の一つである。
駅までの道は、オフィス街の裏を通っていることになるため、ネオンサインなどには無縁で、ほとんど街灯だけの世界である。街灯に照らされた自分の影を気持ち悪く思うことがある。自分の足から放射状にいくつも影が伸びている。結構暗い街灯ではあるが、短い距離で点在しているので、そんな風に見えるのだ。中には明るい街灯もあり、照らされるとビルの壁に大きく映し出されることがある。
――これが自分なのか――
と思って時々見上げているが、あまり気持ちのいいものではない。鏡を見るのとはわけが違う。等身大ではないのがこれほど気持ち悪いものだとは思ってもみなかった。まったく自分ではないものに見つめられていて、しかも表情が分からないので、本当に自分なのか半信半疑に陥ってしまう。見つめるのが恐いのだ。なるべく意識しないように歩いているが、どうしても意識してしまう。それも気持ち悪い理由の一つだ。
ビル風が吹きぬけている。まるで耳鳴りのように響く音は、空気の薄い高山に登った時に感じるものにも似ていた。一瞬真空状態が襲ってくるように思えて、自分がいる場所が分からなくなる時がある。
冬になると吹き抜ける風の強さも半端ではないだろう。この店に来るようになってからまだ半年も経っていない。夏の間はビールがおいしく、焼き鳥を肴にほろ酔い気分になっていたが、冬になると日本酒が恋しくなる。鍋類なども豊富で、楽しみである。
まだそこまでは寒くなっていなかったが、表の涼しさがそろそろ寒さに変わろうとする頃である。山間では紅葉が目立ち始めた頃なので、寒さを感じても無理のないことだ。
店の中は熱気に溢れていることが多い。焼き鳥の煙が表にはみ出し、食欲をそそる。立ち寄らない時は食欲に打ち勝つための我慢を強いられていた。
中に入ると、その日はいつもと打って変わってほとんど人がいなかった。今まで人がいっぱいでも自分の指定席は決まって空いていたのが不思議だったが、その日のようにほとんど客がいない時にいつもの席に人がいるのを見るのも妙な気分だ。何しろその人しかいないのだから……。
「仁科君、いらっしゃい」
マスターは元気に声を掛けてくれたが表情は明らかに歪んでいた。横目で座っている人を見ていたが、その人は気付かないのか、ゆっくり口元にジョッキーを持っていって、喉にビールを流し込んでいる。
――実においしそうだ――
座っているのが女性でなければ、露骨に嫌な顔をしたかも知れない。しかし、相手が女性であれば無碍に嫌な顔もできず、ただ見つめているしかなかった。横顔からも無表情さは溢れ出ていて、思わず横に座ってもその顔を無意識に眺めていた。
いや、そんなことはなかっただろう。隣に座ったのも、意識してか無意識か分からないが、他の席に座ることなど考えられなかったのが本心である。そして横顔を見ていたのも決して無意識ではない。相手が意識してくれることを密かに望んでいて、それで眺めていたのだ。しかし、意識などしてくれない。わざと無視しているのか、それにしては一切表情に変化がないのは、本当は見えていないからではないかと思えるくらいだ。
そういえば、店に入ってから彼女がこちらを振り返ることはなかった。
しかし、じっと見つめているとやっと気付いたのか、いきなり仁科の方を振り返ると、
「こんばんは、初めましてですね」
作品名:短編集33(過去作品) 作家名:森本晃次