短編集33(過去作品)
年輪
年輪
私は最近、仕事で疲れることが多くなった。
三十歳近くになると、第一線の仕事と言っても、管理職と部下との間に挟まれた、ストレスの溜まる仕事が増えてきたからである。
「矢口君、自分のこともそうなんだが、今のお前の立場は部下を見る立場でもあるんだぞ。しっかりしてくれないと困るじゃないか」
今までなら何も考えず自分だけのことをしていればよかったのが、上司からは監督責任を求められる。役職も主任という肩書きがつき、営業の人との商談なども、私に任せられることもあるのだ。
「責任ばかり追及されて、わりに合わないな」
同期入社の連中の声が聞こえてきそうだ。実際に、廊下などで会えば、
「お前も大変だろう? 俺だってストレス溜まるよ。こんなことなら主任になんてならなきゃよかった」
と話していたのは、同期の中でも主任になれたことを一番喜んでいたやつである。いかにも手放しでの喜び方に、
――なんて幸せそうな笑顔ができるんだ。俺にはできないな――
と思っていたら案の定、すぐにグチを零すようになった。
「俺は矢口と違って、すぐに気持ちが顔に出るからな。本当は損な性格なんだが、どうしようもないんだよ」
と嘯いているが、口調はまんざらでもなさそうだ。
――得することもあれば損をすることもある――
どっちがいいとは言い難い面はある。しかし、私としては、
――本人がいいと言うんだから、いいじゃないか――
と意外に冷めた目で見ていた。
そういう意味で、あまり感情を表に出さない私は、気持ちの面でも喜怒哀楽が激しくなく、きっとそれほど悩んだり落ち込んだりしないだろうと思っていた。
「何となく胃が痛いような気がするんだよな」
「あまり弱音を吐かない矢口さんが珍しいですね」
一番気さくな感じの後輩で、名前を吹雪といい、口は堅い雰囲気である。彼に話す分には誰にも話さないだろう。いや、ひょっとして優しい言葉でも掛けてほしいと感じたのだろうか?
――いやいや、俺に限ってそんなことはないだろう――
と必死に自分に訴えかける。
「矢口さん、僕いい医者知ってるんですよ。行ってみませんか? 少し古い建物でボロっちい感じなんですが、腕は確かです。紹介しますよ」
「ありがとう。君の紹介なら安心だ」
吹雪はそういって地図を書いてくれた。会社からそれほど遠いところにあるわけではないが、小さな路地に入り込んでいるようで、なるほど、あまり目立つところにある病院ではない。
翌日朝、会社には、
「病院に寄ってから行きます」
と連絡を入れておいて、病院の開く九時過ぎくらいにゆっくりと出かけることにした。
実際に行ってみると、確かに狭い路地である。しかも昔の住宅地のように同じような場所になっていることから袋小路のようになっている。地図を書いてもらわなければ、きっと辿り着けないだろう。
「福田医院、内科胃腸科……。あ、ここだここだ」
思わず声に出して確認してみる。
病院を探すまでにかなりの時間が掛かったように感じたが、時計を見ればまだ九時になっていなかった。しかし、玄関は開いていて、受付がおぼろげに見える。
木造家屋のようで、看板がなければ普通の家だ。いかにも昔からの病院という感じで、昨日の吹雪の話が思い出された。
表が明るいせいか、玄関が開いているにもかかわらず、受付があることがかろうじて分かる程度である。少しずつ近づくと分かってくるのだが、分かれば分かるほど、古さを感じてくる。
入り口のスリッパを履いて中に入ると、受付には誰もいない。
「すみません」
小さめの声で中に向って声を掛けたが、中から応答がある気配がない。仕方なしにロビーのような待合室に座って待っていることにした。
待合室と言っても、何かがあるというわけでもなく、テレビもなければ、雑誌もない。ソファーが四つ並んでいるだけだった。
そこには、男の人が一人、退屈するでもなく、眠っているでもなく、黙って微動だにせずに、座っていた。
実に静かな待合室である。
「初めての方ですか?」
びっくりして後ろを振り向くと、いつの間にか看護婦さんがやってきていた。いつの間にやってきたのだろう? これだけ静かな室内だというのに、物音一つ感じなかった。
元々これだけ静かなところだと嫌でも、聡くなる方である。神経質な性格なせいだろうか、だからこそ気がつかずにストレスも溜まるのだろうと、勝手に思い込んでいた。
私が保険証を提示すると、
「しばらくお待ちください」
とだけ告げて、また奥に入っていった。
――何て無愛想な看護婦なんだ――
と感じた。これだけ古くさい建物で、しかも看護婦の態度があれでは、患者が少ないのも当たり前である。吹雪の紹介でもなければ誰がこんな病院に来るものかと、心の中で考えていた。
――先生の腕だけでもっているんだろうな。さぞかし堅物で、いわゆる職人肌のような性格に違いない――
と先ほどの看護婦のいた席を見ながら、想像していた。しばし想像しながら立ち尽くしていたが、次第に溜飲も下がってきて、落ち着いてソファーの一番後ろに腰掛けた。
静かな中に響いているのは、時計の音だけである。さすがに古い病院だけに、壁に掛かった大きな柱時計の音があたりに響いていて、「後藤薬品寄贈」と掘り込まれた時計が、今までこの部屋を見続けた証人のように思えてきた。きっと自分が冷静になってきた証拠だろう。
私は熱しやすく冷めやすい性格である。少々怒りに顔を真っ赤にしても、気がつけば他のことを考えていたなどということもしょっちゅうで、気を遣ってくれるまわりが拍子抜けしてしまうことが往々にしてあったりする。冷静になるまでに、私自身でいつも同じくらいの時間を要しているように感じているが、見ている人からすると、かなりの開きがある。しかしそれでもちゃんと冷静になれるので、最近ではまわりの人もあまり気を遣うこともなくなってきた。
私もその方がありがたい。気を遣われると私自身、そのことを敏感に感じているので、お互いにぎこちなくなることもある。それで会話が固まってしまい、まわりの空気も冷たく、そして重くなってしまったなどということもあった。
静かな部屋の中では重たいというよりも、空気に流れがなく、暑さ寒さすら感じないような、不思議な空間を感じていた。
目の前に座っている老人は目を閉じて静かにしている。私が入ってきた時に、ちょうど目が合って、軽く頭を下げる程度の挨拶を交わしたが、私が受付で話をしている間に、どうやら目を瞑ってしまったようだ。
というよりも、私が入ってくる前の姿に戻ったような気がする。私の気配を感じ、目を合わせただけなのだろう。慣れたもので、この部屋の雰囲気にすっかり馴染んでいるように思える。
入り口から見た待合室はそれほどの広さを感じなかったが、ソファーに座って、少し低い位置からあたりを見渡せば、それなりに広さを感じていた。冷静になっているつもりだったが、気がつけばまわりを見渡していて、何となく感じる懐かしさは、子供の頃に行った病院を思い出しているからなのかも知れない。
作品名:短編集33(過去作品) 作家名:森本晃次