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短編集33(過去作品)

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 誰もが持っている臆病さに、その時初めて気付いたんだろう。それまで感じたことがなかったのが不思議なくらいで、それを道化師が教えてくれた。道化師は滑稽な格好をしておどけて見せるのが仕事、人の気付いていないことを気付かせるところがあったとして何の不思議があろうか。表情が分からないだけに、そのメイクの下にはどんな感情が隠されているのか見てみたいと思うのは仁科だけではあるまい。
 道化師は突然現れて、忽然と消えてしまう。彼を見た人はその時だけではなく、それ以降もそれぞれの心の中に何かを気付かせてくれるのだ。いいことなのか悪いことなのか分からないが、少なくともいいことだと思いたい。
 アルコールを飲むとトイレが近くなるのは仁科だけではない。何度となく尿意を催し、話に夢中になっていたので我慢していたが、それも限界に近づいてきた。
「ちょっとトイレ」
 と声を掛け、トイレへと急ぐ。トイレを済ませるとホッとした気分になり、酔いが一気にまわってくるのを感じる。狭いトイレだが、そこにある鏡を覗き込むと、さすがに顔が真っ赤である。目も充血していて、かなり酔っているのを感じた。
 顔に手を当てるとかなり熱く、ここまで酔ったのは久しぶりだった。やはり女性が隣にいるというだけで、相当緊張しているのだろう。
 席に戻ると、彼女の顔もかなり赤くなっているのを感じた。耳の横までほんのりと赤く、色っぽさを感じるのだった。女性の俯き加減になっている横顔がこれほど妖艶なものだとは今まで気付かなかった。
 会社の飲み会でも女性のほろ酔いを見ることはある。しかし皆賑やかで、落ち着いて飲んでいる人などいない。さっきまで正面から目を見ながら話をしていた人の表情が一変して感じる。どちらも魅力的だが、今見ている女性がオンナとしての魅力は十分である。
「お待たせしました」
 席につくとまた話始める。話は親の話へと移ってきた。
「私のお母さんは、五年前に亡くなったんだけど、実は不倫をしていたみたいなの。その人に結構暴力を受けていたみたい……」
「相手は?」
「相手も妻子持ちの方で、その人は私にとっては仇みたいなものね。すぐに亡くなったみたいなので、あまり恨むこともなかったわ。その人を脅かしてやったことがあったの。ちょうどうちの近くでやっていたサーカスの人とお友達になって、そこでピエロの衣装を借りたのよ。それを着て、黙って後ろからついていってあげたの。そうすると、相手の男の人はかなり怯えていたわね。ピエロの格好が本当に恐ろしかったみたい。見る見るうちに表情が硬くなっていって、そのまま歩いていけば、前にある大通りに気付かずに、そのまま出て行って、トラックに……」
 最後まで聞かずとも、それが父であることは分かった。彼女がかなり酔っているのは分かっているが、酔っているから話ができるのか、相手がその息子だと分かって話しているのか分からない。
「でも、私、今になってあの時の母の気持ちが分かるの。暴力的な父に、まだ小さかった頃の私を抱えて、きっとどうしていいか分からなかったに違いないわ。どうやら母って男の人から見ると、苛めたくなるらしいの……」
 父にもそんな甲斐性があったんだと思わないでもなかったが、それでも母や自分を裏切り続けていたのは事実である。しかし、相手の娘が気持ちは分かると言っていることもあって、許してあげたい気持ちになってきた。仁科も大人の世界に入り込んでいるので、気持ちが分からないわけではない。今までに恋愛経験がなかったわけではないし、本気で結婚を考えた女性だっていた。
 目の前の彼女がいとおしく、抱きしめてやりたい衝動に駆られるのをグッと堪え、話を聞いていると、酔いが次第に覚めてくるのを感じる。酔いが覚めてくるとまたしてもトイレが近くなる。何度トイレに立ったことだろう。もう覚えていないくらいだ。
 トイレで何度も鏡を見るが、確かに酔いが覚めてくるのか、顔がだんだん白くなってくるのを感じる。じっとその顔を見つめているとどこかで見た顔に思えてならない。自分の顔なのだから当たり前なのだが、それが夢の中だったように思える。
――そうだ、お棺の中の顔だ――
 父の葬儀の夢を見た時に覗き込んだお棺の中、その中には父とは違うが、どこか見たことのある顔が無表情で横たわっていた。それが今鏡に写った自分の顔である。
 鏡に写っている顔は、本当に自分の顔なのだろうか?
 よくよく見ると自分の顔ではないように思えるが、それでも他人とは思えない。普段一番見ることのないのが自分の顔である、意識がなくて当然とも言える。やはり、そこに写っている顔はまさしく自分なのだ。
 鏡を見ながら母の顔を思い出していた。
 思い出すその顔は、父が死んだという訃報を聞かされた時にかなしばりに遭った時の母の顔だ。あの時の次第に白くなってくる顔、途中で目を逸らしてしまったが、あのまま見ていればきっと道化師のような表情になったのではないかと思える。後から考えて思うだけで実際にはそんなことはないと思っていたが、ここで一緒に飲んだ女性の横顔を見ると、本当に母の顔が道化師に変わっていったのではないかと思えるのだ。
 母の顔を思い出していると、父の顔が道化師に見えたのも分かるような気がした。お互いに気持ちを道化師という仮面で隠して偽っていたのだろう。道化師の白粉は、偽るのにちょうどいい。
 集中して鏡を見ているとやたら喉が渇いてくるのを感じた。カラカラに乾いた喉は、少しくらいの水分では補うことができない。次第にお腹も減ってくる。グーというお腹の音が聞こえてきて、さらに空腹感を煽る。喉の渇きは空腹感よりもさらに激しく、焼けるようなといった表現がピッタリだ。
 声にならない声を上げる。だが、それは空気を揺らすことすらできないもので、それだけ喉の奥が灼熱に覆われている。
 最初は喉の奥だけだったが、それが次第に身体の外まで及んでくるようになれば、嫌でも身体が反応してしまう。
 今までにここまで身体が反応するような熱さを感じたことがあっただろうか。痛みはそれほど感じない。ひょっとして顔の表情は変わっていないのではないかと思えるほど、身体の感覚が麻痺しているようだ。
 足が攣った時と同じではないか。攣った時の熱を持った足の熱いこと。呼吸が止まってしまうほど硬直してしまった表情なのだ。
 感覚が麻痺してしまうと、痛みなど感じないのかも知れない。父の死は即死だったが、痛みを感じる暇などなかったかのように思う。
 人間死ぬ時には、安らかな顔になる。それが元々の本性なのだろう。生きている時とはまったく違う表情に却って哀れを誘う人もいる。父などその典型ではないだろうか。
 道化師の夢を見始めて、胸騒ぎのようなものを覚えた。
――自分にも父のような暴力的なところがあるんだ――
 そう感じたのは、社会人になってすぐだった。
 付き合い始めた女性がいて、彼女のことを好きなあまり、暴力に走ったこともあった。
――やっぱり父の息子なんだ――
 あんな父親にだけはなるまいと反発心を強く抱いて大きくなったはずだった。それを気持ちのどこかに持っていたにもかかわらずこの変貌は、やはり親からの遺伝といっても差し支えないだろう。
作品名:短編集33(過去作品) 作家名:森本晃次