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のしろ雅子
のしろ雅子
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未生怨(みしょうおん)上巻

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第四章 祈之7歳才の頃 2



 京都の南座から二ヶ月の公演を終え、昼過ぎには鎌倉に戻ると連絡が入ったのは昨日の夜だった。女優の行動は何時も気まぐれで、連絡を受けると途端に家の中は慌ただしく、婆やのタミは風呂場やら玄関口の掃除に余念が無かった。
 しかし一番喜んだのは何と言っても祈之で、夜、横に添い寝する正夫に
「いい子にしていましたか?ってママがね…抱き締めてくれる時が一番好き…そしてね、お土産を沢山買ってきてくれるんだ…」
祈之は何時もより燥いでいるように見えた。
 上機嫌で正夫の手を広げたり窄めたりして戯れた。正夫も祈之に囚われている手を狐の形にして頬っぺを摘んだり、怪獣のように動かして祈之を喜ばせた。その日祈之はいつまでも寝なかった。
 やがてその身体が巣篭もりのように熱く熱を帯びはじめると、正夫の手を抱え込み指を口に含み、眼を閉じ夢の中へ深い眠りへと入って行った。母の温もりに飢えた子は、母の乳房を永遠に恋しがるものだろうか。祈之は未だに正夫の指を含んで寝た。微妙な舌の動きは正気と酔夢の世界への狭間のように断続的に微かに続き、そして途絶えた。
 正夫は指をそっと抜き取ると、ぐっすり寝入った祈之を見つめた。今まで祈之が母に抱かれた姿も、土産を貰った事も記憶に無かった。
 一度、愛おしそうに抱き締めた事があった。男と外国旅行に行った時スクープされ、大勢のレポーターが成田で待ち受けていた時、あらかじめ祈之を呼び寄せ、レポーター陣に囲まれると、「子供の前ですから…」と頬摺りするように祈之の顔を手で隠し、レポーターを黙らせ逃げ切った事があった。その時は愛しそうに抱き締めていた。しかし、人目から逃れると、直ぐに下ろし、「嫌だ…この子重い、洋服が目茶目茶…ああ…暑い…」と機嫌が悪く、付き人に祈之を押し付けると、自分は何処からかの迎えの車に乗りさっさと行ってしまった。
 祈之はついてきた正夫と、付き人の車に乗り鎌倉に送り返された。女優にとって祈之は都合のいい小道具であって、けして愛の対象ではなかった。母性の薄い女であった。
 祈之のあどけない愛らしい寝顔に、母に抱き締められている夢でも見ているのかと正夫は想い、もう何年も会わない入院している母を想った。押さえ続ける母への思慕を祈之を抱き締める事で紛らし、祈之の顔に押し付けるように顔をくっつけて眼を閉じた。母に会いたかった…。

 翌日抜けるような青空が広がり、真っ青な空に幾重もの線状の雲が果てへと拡がり、その空の高さに秋の訪れを感じた。何時もより家全体が小奇麗に片付き、庭の樹木も小枝を揺らし息づいて見えた。ダイニングルームの大きなテーブルは、それぞれ大人たちが起きてきてまちまちに朝食を摂り、新聞を読みながら政情について軽いディスカッションを交わしていた。
 祈之と正夫は、窓際の小さなテーブルでミルク紅茶と甘く焼いて貰ったフレンチトーストを頬張り、大人たちとは違う二人だけの朝食を取っていた。
 祈之は昨日の上機嫌から一変して口が重い。
「どうしたの?祈ちゃん…ほら…」
正夫は祈之の口に甘いミルクの香りのするフレンチトーストを押し込んだ。軽く口を開けて無意識に口を動かす祈之に口を拭いたり、手を拭いたりして世話を焼きながら、祈之の気持ちを慮った。想像の母の優しさと、実際の母の冷たさは祈之の逃れられない現実で、哀しいほどの寂しさがあった。留守の間は想像の母の優しさに包まれ、帰って来るのを唯ひたすら待ち続けるが、帰ってくると現実の母の冷たさに打ちのめされる事を祈之は知っていた。留守の間、ありもしない母との思い出をよく正夫に語った。それは想像であり願望であった。夜寝る時正夫の手に頬摺り寄せ語る事が多く、正夫は十分解って相手をしていた。そして、軽い寝息をたて長い睫が小刻みに震えたりすると、夢の中の優しい母に抱きしめ られているのかと正夫は哀しくそれが故、愛しく思えた。
 
 京都から戻った母を大人達に混じって正夫に手を繋がれ祈之は出迎えの中にいた。手にいっぱいの花束を抱えて
「皆さん留守の間お世話様」
女優は華やかに台詞回しのように艶やかな笑みを振りまいた。
「お帰りなさい!」
「大盛況おめでとうございます」
「批評も素晴らしいと大絶賛でしたよ…」
 この家の俄か住人達は、そこそこの成功を収めて帰ってきた女優達の一軍を賑やかに玄関口に出迎えた。女優はそうされるのが好きだった。何事も華やかさを好み、人に囲まれかしずかれているのが好きだった。それゆえ自分の信頼する人間の出入りにはいたって寛容で、好んでそうしていた。
 そして、芝居が打ち上げた後必ずプロデューサー、スタッフ、競演した俳優など気に入った人間を大勢連れて帰ってきた。取り巻きに囲まれている母を見つめて“ママ…”と祈之は呟いた。正夫は女優がいつ自分の子供を捜すだろうかと、祈之の手を固く握り大人の間から、その濡れるように艶やかな視線を見つめた。
「いい祈ちゃん、僕が手を放して合図したら、ママの元に走って抱きつくんだよ」
祈之の耳元に囁くと、正夫はそのタイミングを狙った。
 しかし、女優は一度も母の顔にはならず、周りに溢れるような色香を振りまき、部屋に引き上げそうになった。そして、ちょっと真顔になったときを逃さず “ほら!祈ちゃん…” 正夫は祈之の手を放して背中を押すが、気後れしたように一歩も動かず反対に正夫にしがみ付く様に、人の隙間から母を見つめた。正夫はその手を振り解くと、背中に手を当てて前へ押しやった。
「ママ…」と呟くと、親指を口に含み上目遣いに母を見つめた。
「あら…良い子にしてましたか?…」
女優は芝居の続きのような作り笑いでわが子を見ると、皆の視線を浴び花束を抱えたまま、右、左と頬づりをした。それは芝居の一場面のようで、視線は充分に観客を意識し、澱みなく女優は母親を演じた。 愛しそうな笑顔のわりには
「お二階に行ってなさい」
と素っ気無く、横にいるプロデューサーに
「あの子がいたから頑張れましたのよ」
と話しながら、女優はわが子を抱き締める事無く、その場の雰囲気を全部連れて大広間に移っていった。
 一団が波のように引き上げていく中、二人はホールに取り残されその華やかな後姿を見送った。痴呆のように指を咥えぼんやりと母の後姿を見送る祈之に
「祈ちゃん、山に行こう」
と手を引っ張ると、外に連れ出した。
 夏が戻ってきたような強い陽射しを遮るように、裏山の細い道は木立の中を抜けていた。そこは祈之の家の敷地内の裏山で、一ヶ所だけ麓まで見渡せる場所があった。正夫がこの家にきた頃は緑一色の山の上だったが、この数年一軒、二軒と家が建ち、今は斜面にずらりと家が建ち並んでいるのが眺められた。
 正夫は祈之の手を引いて登ってくると、あるものを確かめるように様子を窺った
「あっ!無い、やっぱり来てるんだ。祈ちゃんここにリスの親子が来るんだよ、祈ちゃん来てご覧…」
低く垂れ下がった大木の枝に齧りついた様な痕があり、皮肌が引っ掻かれたように剥けていた正夫はポケットから小さなちり紙の包みを出すと、祈之に拡げさせた
「ピーナツ?…」