未生怨(みしょうおん)上巻
祈之は怪訝な表情で正夫を見つめた。正夫は意味ありげに頷くと、三粒ほど祈之に握らせ、後から抱え上げると枝の上に置かせた。二人はその下の雑草に覆われた斜面に腰を下ろすと周りを窺い耳をそばだてた。シーンとした静けさの中、風の音だけさわさわと吹きぬけた。
「…リス来るかな…」
「きっと来るよ、祈に会いにきっと来る」
正夫は親リスに子リスが戯れついている姿を十日ほど前偶然見つけた。
祈之を喜ばそうとその日から奥の手伝いをしている婆から一握りのピーナツを貰うと餌付けを始めた。ピーナツは落ちない様に木の窪みに置いた。何かの呪いの様に何日も置かれたままだった。それがここ二日ほど前から置くと無くなり、近くに棲息している事は間違い無いと思った。
ジーッと木の枝を見つめていた祈之はその寂しい顔を正夫に向けると
「さっきママが頬っぺ、スリスリした…まーちゃん見てた?」
燥ぐように言った。その表情は白く乾いて、物哀れな空ろさであった。
「お土産沢山買ってきましたよって…まーちゃんと半分こしようね」
正夫は作り話をする祈之に
「祈ちゃんの好きなものだといいね」
と言い肩を抱き寄せた。祈之は顔を輝かして頷くと
「怪獣かな…」
と、作り話を忘れて期待に胸を膨らませた。
表情は頼り無げにくるくると変わる。母の真実の無い態度は、祈之に哀しみを与え、その寂しさは堪えぬ泉のように広がっていた。いつしかその悲しみも、寂しさも慢性化されつつあった。
「…まーちゃん…ギューっとして」
甘えるように母への思いを正夫に求めた。正夫は正面から肩に腕を回すと、ギューっと抱き締めた。それは十歳の少年の不器用な抱き締め方ではあったが、祈之は凭れかかる様に眼を閉じた。
「ねえ…頬っぺもスリスリして…」
正夫は祈之の頬に頬をくっ付けて母親がやるようにチュッと口を付け、胸に掻き抱くようにギューっと力を入れた。祈之は顔を正夫の胸に凭せ掛け二人は暫くそのままでいた。祈之は掬い上げるように正夫を見つめると
「正夫はお母さんみたいだね…」
と、呟いた。
「だって祈ちゃん可愛いもん…かわいい、かわいい」
と抱き締めて腕の中の祈之の身体を揺らすと、祈之は仰け反って笑った。なお抱き締めて揺すると
「くすぐったいよ…」
祈之はクックと笑った。その日リスの親子が来なかった事もお母さんリスと買い物だね、きっと…」と解りの良い事を言い、朝から塞ぎ込んだ事も、母の帰って来た事も忘れたように正夫に纏わりつき、まるで違うものを見ようとし始めているようだった。
それ以来、母が出掛ける事も帰って来る事も大した関心を示さないようになった。
ღ❤ღ
作品名:未生怨(みしょうおん)上巻 作家名:のしろ雅子