第七章 星影の境界線で
幕間 不可逆の摂理
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
その言葉の裏を知らなかった新人の俺は、真面目な先輩のただの訓戒だと思っていた。
早朝の射撃場は、薄氷(はくひょう)を透かした色をしている。屋外であるにも関わらず、まだ充分に彩度の行き渡っていない世界は鮮やかさに欠け、どこか作り物めいて見える。
その嘘を暴(あば)きたい衝動にかられると同時に、そっとしておきたい気分にもなる。そんな不可思議な感覚の中で、俺は的に向かう。
自主訓練を行う者は他にもいるが、休日のこの時間に来るのは俺だけだ。
裏手に広がる森の木々の間を、朝日が分け入る。その中で俺は腕を伸ばし、人の形をした標的を狙う。
一発を撃つまでの時間は、ごくわずか。指先に今や馴染みとなった重みを掛けると、銃声が響き渡り、硝煙の匂いと共に空(から)の薬莢が宙に放り出される。
耳の保護のため、イヤーマフの装着を義務付けられているから、大きな音は聞こえない。だが、指先から掌、腕へと伝わってくる振動から、体全体で射出音を感じる。この瞬間が、俺はたまらなく好きだ。
元から体格がよいわけでもなく、幼い頃から武術を習っていたわけでもない俺は、射撃に強さを求めた。
「流石だな、シュアン。もう俺より上手いなぁ」
全弾を同じ位置に撃ち終えたあと、俺に話しかける声が聞こえた。イヤーマフは爆音をカットするが、人の声は通すのだ。
気配は感じていたけれど無視していただけの俺は、驚くことなく振り返った。勿論、褒め言葉に緩む頬は、きちんと引き締めてある。
「先輩がこの時間に来るなんて、珍しいですね」
決して美形とは言い切れない、造作的にあと一歩足りない、だが人好きのする顔がそこにあった。俺が世話になっている兄貴分。俺に射撃を教えてくれた人、ローヤン先輩。
先輩は俺に軽く会釈すると、隣のブースに立ち、銃を構えた。
一撃、二撃……。
俺の標的とそっくり同じ、中心部にのみ穴の穿たれた標的が隣に出来上がった。
「先輩も、相変わらずお見事ですね」
「おう、ありがとな」
先輩が、気さくな顔でにっと笑う。敵も多いが味方も多い、その理由が分かる笑顔だ。
それからしばらく、俺と先輩は無言でそれぞれの的に向かっていた。
集中力の低下が見え始め、俺と先輩はそろそろ頃合いかと、どちらからともなく片付けを始めた。
「シュアン、朝飯は?」
「まだです」
「じゃ、一緒に行こうぜ」
先輩に誘われるままに、近くの安い飯屋に入った。カウンター席で横並びに座り、朝食は基本だという先輩に倣って、しっかり目のセットメニューを頼むことにする。
注文を待ちながら、俺は何の気なしに尋ねた。
「先輩、今日はどうして早朝から訓練に?」
他の奴なら煩わしいが、先輩なら大歓迎だ。競う相手がいるのは張り合いがある。できれば今後も、などという期待の目を向ける俺に、先輩は考え込むような顔をした。
「先輩?」
「シュアンになら、話してもいいか」
呟くように先輩が漏らした。その言葉に、俺の心が小さな優越感と大きな好奇心に包まれた。
先輩はじっと自分の掌を見て、静かな声で言った。
「一発の弾丸の重さを……確かめに行ったんだ」
「……は?」
そのときの俺は、とても呆けた顔をしていたのだろう。先輩が「すまん、すまん」と頭を掻いた。頼りになる大人の男といった風体の先輩だが、ふとしたときに子供みたいな仕草をする。
「……人に言ったことがない話だからなぁ。上手く説明できる自信がないが……聞いてくれるか?」
「他言無用ということですね」
俺の胸が興奮に高鳴る。先輩は深々と頷いて、そしてゆっくりと口を開いた。
「プロポーズしたんだ」
俺は、え? と聞き返しそうになるところを、ぐっとこらえた。
今までの話の流れから、どうして女の話になるのか? そんな当然の疑問と、『先輩と女』という取り合わせの疑問。
先輩は、モテる。男の俺だって憧れるような人間だ。女たちが放っておくわけがない。だが今まで、不思議なくらいに浮いた噂を聞いたことがなかった。
それが、求婚するほどの仲の女がいたとは……。初耳だ。教えてくれないとは水臭い――ほんの少しだけ面白くない。
俺は努めて平然を装い「ほう」と相槌を返した。すると先輩は、たわいのない話でもするかのように、さらりと言った。
「断られた」
「それはまた……」
俺には他人の色恋に口を挟む趣味はない。面倒くさいことは避けたいクチだ。だから、こんなときには当たり障りなく――。
「――元気出してください」
だが先輩は、そんな俺の上っ面の慰めなど当然、見抜いていて、仕方ない奴だと言わんばかりに苦笑した。
「元気ないように見えるか?」
「……いえ、正直なところ、普段とまったく変わりません」
自分で言っておきながら随分な台詞だと思うが、これが本心。先輩相手に、社交辞令を言っても意味がない。
「慣れているからな」
「慣れている?」
「同じ女に十一回も振られ続けている」
「え……!?」
今度こそ、平然とはしていられなかった。
「いったい、どういうことですか? 付き合っているんでしょう?」
ひとりでいるほうが気楽、という女なのだろうか。それにしても、十回も諦めない先輩も先輩だ。
「ああ、いや、付き合っているというわけでもない」
「はぁ? なんですか、それ」
「彼女のことは……ちょっと公にしにくい。だから秘密にしていた」
先輩は、横並びの俺に顔を向けた。陰りのある瞳が、じっとこちらを見る。
俺は思わず、ごくりと唾を呑んだ。店内は、そこそこの賑わいを見せていたのであるが、まるで俺と先輩のふたりだけの空間に感じられた。
「彼女とは、ある事件で出会った。……俺は、彼女の父親を射殺したんだ」
「え……」
周りの時間が止まったような気がした。その中で、先輩の声だけが聞こえてくる。
「彼女の父親は、いわゆる組織の末端の男だった。彼自身の罪は、たいしたものじゃない。ただ、彼の持っていた情報が厄介でな、組織からも警察隊からも追われていた。彼は追い詰められ、廃ビルに立て籠もった」
先輩は、軽く目を瞑った。眉間には皺が刻まれ、横顔が苦痛に歪む。
「身内として駆けつけた彼女は、父親を説得して自首させると言って、飛び出していった。――その結果、父親はあろうことか実の娘にナイフを突きつけて人質にしちまった」
「なんだって……?」
俺の衝撃に、先輩も「ああ」と応える。
「実の娘だ、まさか危害を及ぼすまい。俺たちも、そう高をくくっていたよ」
先輩が、ふぅと深い後悔を吐き出した。
「俺たちが動じないのを見ると、父親は無理心中をすると言い出した。『どうせ組織からは逃げられない』そんなことを言っていた。そして『娘が死ぬのは警察隊のせいだ』と、『後悔しろよ』と」
俺は息を呑んだ。この場合、警察隊として取るべき行動は、人質の安全の確保だろう。先輩は射撃の名手だ。すぐそばに人質の娘がいても、父親だけを貫く自信はあったはずだ。
ここまで聞けば、もう聞かなくても分かった。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN