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第七章 星影の境界線で

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2.眠らない夜の絡繰り人形ー3



「ローヤン先輩……」
 シュアンが呟いた。
 だが、ローヤンの目はシュアンを通り越し、その先にいるミンウェイの背中を食い入るように見つめていた。
 彼女は、まだ心音の止まっていない巨漢を蘇生すべく、胸骨圧迫を施していた。それが適切な処置であるかは疑問だが、大事な情報源を失うわけにはいかぬと必死なのだろう。
 血にまみれ、ぬめる巨漢の体に、彼女は躊躇なき衝撃を与える。ちらりとモニタを確認しては手元に視線を戻し、髪を振り乱しながら規則的な動作を続けていた。
 しかし、その苦労も虚しく、巨漢は全身で地獄の苦しみを表現しながら、徐々に鼓動を弱めていく。
「無駄ですよ」
 ミンウェイを小馬鹿にするように、ローヤンが嗤った。
 シュアンは制帽を目深にずらし、表情を隠した。
 半分、影の入った視界に映るローヤンは、姿形も、声すらも、紛うことなく先輩だった。しかし、目の前の男は、まったく別人であると、シュアンの本能は告げている。
 シュアンは唇を噛む。口腔内に、じわりと鉄の味が広がった。
 桜の大木の庭で、警察隊と凶賊(ダリジィン)が大集結したときから、ローヤンの様子はおかしかった。
 救出すべき貴族(シャトーア)の令嬢を一方的に替え玉と決めつけ、発砲した。

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ。俺たちは常にそれを意識して、引き金を引かなければならない』

 ローヤンは、決して臆病な男ではない。
 けれど、軽率な男でもなかった。
「……あんた、誰だよ?」
 獣が唸るような声で、シュアンは問いかけた。
「おや? 警察隊の方が、鷹刀の屋敷にいるとは意外ですね」
 あざ笑うかの調子で、そして、まったく見知らぬ他人への口調で、ローヤンは口元に微笑を浮かべた。
 シュアンの動きが一瞬だけ止まった。だが、すぐに、巨漢につきっきりになっているミンウェイに呼びかける。
「ミンウェイ。こいつは、俺の先輩じゃない」
 ミンウェイの返事はない。一心不乱に蘇生を試みる彼女の耳には、何も聞こえていないようだった。
「おい」
 シュアンは、つかつかとミンウェイのもとに寄って彼女の腕を掴んだ。ぐいと引き寄せ、彼の両手が彼女の両肩をがっちりと捕まえる。そのまま、彼女の体をモニタ画面に向けた。
「そいつはもう、何をしても助からない。分かるだろう?」
「あ……」
 まだ、モニタの波形は直線ではない。ただ、限りなく直線だった。
「それより、こっちだ」
 シュアンはローヤンを示す。
 ミンウェイがローヤンへと顔を向けたとき、ローヤンが目を見開き、喜色満面を浮かべた。
「ああ、ミンウェイ。やっと君に逢えたね」
 愛しい者を見る目でローヤンが呟く。
「美しくなった。さすが、私の〈ベラドンナ〉だ」
 ミンウェイの表情が凍った。乱れた髪が一筋、目元から頬まで抜けていき、まるで彼女の綺麗な顔に傷がついたかのように見えた。
「髪に巻き癖をつけているのかい? 悪くはないけれど、可憐な〈ベラドンナ〉には、その髪は華やかすぎるよ。楚々とした美しい貴婦人の花だからね」
 ミンウェイの顔が蒼白になった。
 彼女の両親は、鷹刀一族の血を濃く引く、従兄妹同士。よく似た遺伝子を持つふたり。だから本来の彼女の髪は、イーレオ、エルファン、リュイセンなどと同じ、まっすぐで艶(あで)やかに輝く、さらさらの黒髪だった。
 ――けれど、それを知っている者は、今となってはそう多くはない。
 ミンウェイは、一歩後ずさった。
 その背に、シュアンが手を回す。腰が引けた彼女を逃すまいとしているようであり、倒れそうな彼女を支えているようでもあった。
「あんた、この男を知っているんだな?」
 シュアンが低い声で尋ねた。
「し、知らない……。知りません!」
 ミンウェイが激しく首を振る。
「知らないってことはないだろう?」
「彼は、あなたの先輩でしょう!?」
 すがるような目で、ミンウェイはシュアンに訴える。よろけかけた姿勢から彼を見上げたとき、目深な制帽で隠していた彼の目元が見えて、彼女は息を呑んだ。
 独特な、彼らしい軽い口調が変わらなかったから、彼女は今まで気づかなかった。
 果てしない憎悪――。
『不快なものを殲滅したい』と、応接室で彼女に語ったときと同じ、暗い暗い炎が揺らめいていた。
 軽く口の端を上げたままの、笑んだような口元から狂犬の牙が覗いた。だらだらと涎を垂らしながら、噛みつける相手を見つけた歓喜に喉が鳴っている。――ミンウェイには、そんな幻影が見えた。
「俺は『こいつ』のことは知らない。――俺は先輩の交友範囲なんて把握してないが、少なくとも凶賊(ダリジィン)の女と付き合っているなんて聞いたことがない。だが、『こいつ』は明らかに、あんたのことを知っている」
「……信じられない。だって、あり得ないもの……」
「現実ってヤツは、信じる者を踏みにじるために存在しているのさ」
 そう言って、シュアンは『ローヤン』を睨みつけた。
 この絡繰(からく)り人形が、どんな手段で作られたのかは分からない。重要なのは、ローヤンは怪しい小細工に堕ちた。それだけだ。
 警察隊内外から信頼の篤(あつ)い男だった。それはつまり、邪魔に思う敵が多いということだ。シュアンの上官たる、あの指揮官も疎んでいた。
 ――ほら、絡繰(からく)りの歯車は揃っている……。
「あんたは、休んでろ」
 彼は、ミンウェイの背に回していた手を外し、彼女とローヤンの間に体を割り込ませた。突然のことに彼女はたたらを踏むが、なんとか踏みとどまる。
「緋扇さん……?」
「俺は、『こいつ』と話すために、ここに来たんだ」
 シュアンは、ローヤンの載せられた台に近づいた。ミンウェイの気遣わしげな視線を感じるが、完全に拘束されている相手を恐れることはない。
「よぉ、〈七つの大罪〉の〈蝿(ムスカ)〉さん。はじめまして」
 馴れ馴れしく言って、口元から牙を覗かせた。背後でミンウェイが何やら反応しているが、そんなものは無視である。
「ほぅ、私を〈蝿(ムスカ)〉と呼びますか」
「ああ」
 この男は先輩ではない。先輩とは別人の『誰か』なのだ。そして、ミンウェイとのやり取りを聞いていれば――。
「だって、それしか考えられないだろう?」
〈七つの大罪〉の技術とやらで、ローヤンを操っている。――それがシュアンが導き出した答えだった。
「そして、そっちの巨漢も、『あんた』だ」
「ふむ。どうしてそう思うんです?」
「そいつは見た目が脳筋馬鹿のくせに、小賢しい口を叩いていた。あんたそっくりのな」
 シュアンは、ちらりと隣の台に目をやった。モニタ画面は、生と死の境界線を描いたかのような直線となっていた。
「昼間……鷹刀イーレオの部屋で、俺はそいつを人質に、偽警察隊員に武器を捨てるように言った。そしたら、そいつは『私のことはどうでもいい』と言いやがった」
 執務室に仕掛けられた、〈ベロ〉という人工知能の活躍で事態が収束したため、皆の記憶からは抜け落ちてしまったかもしれないが、シュアンは覚えていた。一度は、シュアンがあの場を制圧したのだ。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN