第七章 星影の境界線で
この執務室に仕掛けられた地獄の番犬〈ベロ〉。奴の攻撃は百発百中だが、今だけは勝算がある。このまま鷹刀イーレオを人質にして、屋敷の外まで出ればいい。シュアンは荒く息をつきながら考えた。
「く、くくく……。面白いな、お前は」
イーレオが喉の奥で笑った。神経を逆なでされ、シュアンの眉が上がる。
「何が可笑(おか)しい?」
「お前に俺は撃てない。俺を撃った瞬間に、お前は殺されるんだからな。――お前はまだ、これからやりたいことがあるんだろう? 死んだらできまい」
「……っ!」
「だが、俺の部下が、お前に手を出せないのも確か――」
そう言ったイーレオの体が、重力に身を委ねるかのように、ふらりと後ろに倒れるのをシュアンは感じた。突きつけた銃口から心臓が遠ざかり、力強く押し付けていた銃身が抵抗を失い、シュアンはバランスを崩す。
と、同時に、イーレオは体を捻り、自らも倒れながら、シュアンに足を掛けて引き倒した。
「な……っ!?」
ぼさぼさ頭に載せられていた制帽が、宙を舞う。受け身を取ることも叶わず、シュアンは思い切り床に叩きつけられた。
「――まぁ、俺が捕まったままならば、だがな」
シュアンと共に倒れたはずのイーレオが、いつの間にか立ち上がっており、シュアンの拳銃を握る手を踏みつける。
――言葉はおろか、呼気すら出なかった。
シュアンは呆然と、イーレオの涼やかな顔を見上げる。毛足の長い絨毯が、ちくちくと頬を刺した。それは昼間の〈ベロ〉の殺戮の名残りを物語るかのように、乾いた血で固まっていた。
左手は自由だ。だが、体術で凶賊(ダリジィン)に敵うべくもない。そういえば、昼間は次期総帥エルファンに、同じように床に転がされたのだ。
万事休すなのか――?
絶望の海に飲まれながら、それでも救いを求め、シュアンの視線があちらこちらへと悪あがきをする。
そんなシュアンに、イーレオが「なぁ、緋扇」と、魅惑の微笑を落とした。
「どうして俺は、こんなに強く美しいのだと思う?」
シュアンは自分の耳を疑った。
「……は?」
やっとのことで出た声は、とても間抜けな響きをしていた。
イーレオは答えを求めていたわけではないようで、シュアンの阿呆面にも構わず、言葉を続ける。
「鷹刀という一族は、濃い血を重ねて合わせて作った、〈七つの大罪〉の最高傑作なんだよ」
「な……んだって……?」
「――と、言ったら信じるか?」
冗談とも本気とも取れる告白――だが、鷹刀イーレオがこの場で言うからには、嘘であるはずもなかった。
シュアンは言葉を返せなかった。
イーレオは静かに、「だから――」と、言を継ぐ。
「鷹刀と〈七つの大罪〉は、互いに利用し合う、ウィン・ウィンの協力関係だった。一族の中には、奴らの技術に夢中になり、自ら望んで、〈悪魔〉と呼ばれる〈七つの大罪〉の研究者になる者もいた」
夜の静寂(しじま)に、イーレオの声が淡々と流れる。その話は、幻想的な言葉にくるまれ、お伽話めいていた。
「俺は、そんな狂った一族から、俺が本当に大切にしたい者たちを守るために、父を殺し、長兄を殺し、血族のほとんどを殺し……。〈七つの大罪〉の〈神〉に、別れを告げた」
「〈七つの大罪〉の〈神〉……?」
シュアンの呟きにイーレオは答えず、ただ薄く笑う。
「今、斑目の背後にいる〈七つの大罪〉が何を考えているのかは、俺も分からん。だが、これはもう、お前には関係のないことだ。お前と手を組んだのは、凶賊(ダリジィン)の情報交換に関してだけだからな」
シュアンは――不敵に嗤った。
「ならば、別の取り引きをするまでだ。――先輩に会わせてくれ。そしたら俺の裁量で、先輩がどうなっても鷹刀は無関係ということにしてやる」
「ほぅ? どういうことかな?」
まるで、いたずらの相談でも持ちかけられた子供のように、イーレオの目が楽しげに細まった。
「先輩は表向き、貴族(シャトーア)に発砲した罪で、独房に入れられたことになっている。なのに、いなくなっていたら、どうなるか? ――先輩は巨漢と違って正規の警察隊員だ。きっちり事実関係を調べることになるだろう。そして、先輩の姿が最後に確認されたのは、この鷹刀の屋敷だ。鷹刀が疑われるのは、まず間違いない」
「ほほう。お前は、この俺を脅迫するのか」
「そうだな、凶賊(ダリジィン)の総帥を脅迫するってのも面白い」
シュアンが、ぎらりと狂犬の牙を見せる。
床に転がされた無様な姿。唯一ともいえる特技の、射撃の技倆(うで)を支える右手はイーレオに踏みつけられたまま。なのにシュアンは、凶賊(ダリジィン)の総帥に挑戦的な目を向けた。
「それじゃ、これは脅迫だ。先輩の身柄について、俺の口利きがなければ鷹刀は疑われる。だから、あんたらは俺を殺すことはできない。俺の言いなりになるしかないのさ!」
この場を切り抜け、先輩に会うためだけの、出任せの方便だった。もっともらしいが、実のところ、鷹刀一族が疑われたところで証拠不充分で終わるだろう。
ここにいたのが次期総帥エルファンだったなら、図に乗るなと柳眉を逆立てたに違いない。あるいは、シュアンの猿知恵を鼻で笑い、軽く論破しただろうか。
しかし、シュアンを踏みつけていたのは、イーレオだった。
「いいだろう」
「え……?」
右手に載せられていた重みが、すっと消える。
あまりの呆気なさにシュアンが唖然としている間に、イーレオは執務机の定位置に戻っていた。
「お前のことだから、後悔なんてしないだろう? なら、会ってこい」
相変わらずの頬杖をついた姿勢で、じっとシュアンを見る。含みのある目。深い海を思わせる眼差し。この話を始めたときと、寸分変わらない。シュアンの働いた非礼など、まるでなかったかのようだ。
「それで? 先輩はどこにいるんですか?」
シュアンは内心の動揺を隠し、飛ばされた制帽を拾いながら立ち上がった。
「メイドに案内させる。そこに、ミンウェイがいる」
「え、彼女が?」
それは意外だった。捕虜を吐かせるのなら、屈強な男があたると思っていたのだ。
「本当は、あの子に任せたくないんだが、あの子以上の適任がいなくてな」
「それはどういう……?」
「適任なのは、あの子が薬物――自白剤の扱いに長(た)けているからだ。そして、任せたくない理由は……」
イーレオの目が、ふっと陰る。
「……今、俺たちの前をうろついている〈悪魔〉が〈蝿(ムスカ)〉という名前で、〈蝿(ムスカ)〉というのは、あの子の父親だからだ」
「え……?」
「言ったろ? 鷹刀と〈七つの大罪〉は密接な繋がりがあったと。一族の中には〈悪魔〉になった者もいると」
「あ、ああ……。それじゃ、その〈蝿(ムスカ)〉ってのは、あんたの息子ってわけだ」
「娘婿だ。――だが、俺の甥でもある。奴は俺が総帥位を奪うときに殺した長兄の息子だ」
シュアンは「はぁ」と曖昧に相槌を返した。近親婚は、ややこしい。
「要するに、捕虜の口から父親の話が出るかもしれないから、イーレオさんとしては彼女に任せたくない、と」
「そういうことだ。しかもミンウェイは、プライベートが関わるかもしれないから、と言って助手を拒んだ。ひとりにしてほしい、と」
「……っ?」
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN