第七章 星影の境界線で
2.眠らない夜の絡繰り人形ー1
外灯が闇を緩く照らし、夜桜を白く浮かび上がらせていた。
夜風に吹かれた花びらは、流星のように煌めきながら散っていく。
メイシアはテラスに出て、じっと空を見上げていた。部屋の中にいるよりは、少しでもルイフォンを近くに感じられる気がしたのだ。
彼女は、最後にふたりきりで交わした会話を思い出していた。
「もし、三時間経っても俺から連絡がなかったら、藤咲家として警察隊に通報してくれ」
鋭く研ぎ澄まされたテノールが、メイシアの鼓膜を叩いた。
「……そんな顔をするなよ。大丈夫だ」
ルイフォンの優しい手がメイシアの頭をくしゃりと撫でる。掌の温かさが頭皮をじわりと包み込み、それが体中に広がっていった。
体温が急上昇していくのを止められず、メイシアは真っ赤な頬を両手で覆った。自分でもおかしいと思うのだが、今まで以上に彼のことを意識してしまっている。
「警察隊にお任せできるのなら、ルイフォンが行くことはないのではないですか?」
早鐘を打つ心臓を抑え、できるだけ平静を保ち、メイシアは尋ねた。
今までは、斑目一族や厳月家と繋がっている指揮官が邪魔をしていたので、『斑目一族が父を囚えているという事実はない』と突っぱねられていたが、現在は状況が変わっているはずだった。
しかし、ルイフォンは首を振った。
「警察隊が動き出すより先に、斑目が動く可能性が高い」
斑目一族が『動く』とは、すなわち父の殺害。それよりも早く、ルイフォンは救出しようとしているのだ。
けれど――と、メイシアの瞳が陰る。
ルイフォンは、貧民街で傷だらけになって戦ってくれた。彼が本来、前線で戦う人間ではないことは、彼女にだって理解できる。なのに、その傷も癒えぬうちに、再び行こうとしているのだ……。
「メイシア!」
ややもすれば叱りつけるかのようにも聞こえる声で、ルイフォンが彼女の名を呼んだ。
「俺を信じろ」
そう言って、抜けるような青空の笑顔をこぼす。
彼は猫背を更に曲げて、メイシアの後ろの壁に手をついた。そして、そのまま、彼女の唇に口づけた。
メイシアは、ルイフォンの名残りを探るように、自らの唇を指先で押さえる。
――どうか、無事でいて……。
胸元のペンダントを握りしめ、彼女はそう祈った――。
「班目への『経済制裁』の件、ご苦労だった。迅速な対応に感謝する」
それなりの年齢であるにも関わらず、艶(あで)やかな美貌の持ち主――鷹刀イーレオは、執務机に頬杖を付きながら言った。崩した姿勢からは傲慢さではなく、親しみが漂っている。
「鷹刀の情報があってこそ、です。――今後も頼みにしていますよ」
鷹刀一族と手を組んだ警察隊員、緋扇シュアンは、軽く世辞を交えて笑いかけた。
不正の証拠を受け取った彼は、即座に行動した。その結果、斑目一族の資金は既に大部分が凍結され、麻薬や密輸入品は押収されている。
シュアンはそんな報告と、もうひとつの用件のために、現場から鷹刀一族の屋敷に舞い戻ってきたのだった。
「それで、こちらに残していった警察隊員のことなのですが……」
「ふたりの捕虜のうち、巨漢は偽の警察隊員で、若いのは本物の警察隊員――お前の先輩ということだったな」
「ええ。捕らえたからには口を割らせるつもりでしょう? 俺も同席させてもらえませんかね?」
軽い口調で、シュアンは言う。しかし、内心は緊張状態にあった。
先輩は、貴族(シャトーア)の令嬢を替え玉と決めつけて発砲した。普段の先輩とは別人のような、あり得ない蛮行だった。
絶対に、何か事情がある。シュアンは、それを知りたい。だから、どうしても同席の許可が欲しかった。
だが、鷹刀一族とは手を組んだとはいえ、わきまえるべき距離がある。それを一歩間違えれば、シュアンなど一瞬のうちに、後ろにいる護衛の刀の錆だろう。
イーレオが、含みのある目を向けてきた。深い海を思わせる眼差しに、シュアンはたじろぎそうになる。
ぎぃ、と椅子が鳴き、イーレオが姿勢を正した。
「……お前は、〈七つの大罪〉という組織を知っているか?」
深く低い声だった。
シュアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ええ、俺も裏側の人間ですから、――ある程度は」
その答えには、かなりの誇張があった。
〈七つの大罪〉という組織の存在は広く知られ、恐れられているが、詳しいことは謎に包まれている。何しろ、実在を危ぶむ声さえ上がっているのだ。だからシュアンの知っていることなど、ごく表層のものに過ぎない。
ただ、主に非道な人体実験などを行う『闇の研究組織』とだけ聞いて……。
シュアンは、はっと顔色を変えた。
「まさか……先輩は〈七つの大罪〉に……」
「察しがよくて助かるな。説明が省ける」
「あ、はは……なるほどね」
自分でも何が可笑(おか)しいのか分からないが、シュアンの口からは笑いが漏れた。
「――ええ、噂に聞いていますよ。〈七つの大罪〉は、昔、鷹刀と組んでいたが、今は斑目だと」
「俺が総帥になったとき、一方的に縁を切った。気に食わなかったからな」
過去を思い出したのか、イーレオの言葉が少しだけ途切れ、そして続けられた。
「そういうわけだ。――緋扇、お前は帰れ」
「は?」
シュアンは、何を言われたか分からなかった。この流れで、『帰れ』と言われるなど、微塵にも思っていなかったのだ。
徐々に理解が脳に染み込み、それに比例してシュアンの腹の底がぐつぐつと沸き立つ。彼はわざとらしく鼻を鳴らし、三白眼で睥睨した。
「〈七つの大罪〉の名前に、俺が怖気づくとでも? イーレオさん、あんた俺を見くびりすぎだ」
そんなシュアンに、イーレオは何を思ったのか、すっと立ち上がった。ゆっくりとシュアンに近づき、彼の肩にぽん、と手を置く。
隣に立たれると、イーレオは思っていた以上に上背の高い男だった。
――そして、天から声が降る。
「餓鬼が――……自惚れるな」
ぞくり、とした。
抗いがたい恐怖が、シュアンを襲った。気づいたときには、シュアンはイーレオの手を――凶賊(ダリジィン)の総帥の手を、容赦なく叩き落としていた。
「あ……」
しまった、と思ったときにはもう遅い。シュアンの瞳に、片手をさするイーレオの姿が映る。
全力疾走でもしたかのような汗が、どっと流れてきた。激しい動悸。まともに呼吸ができない。
後ろに控えていた護衛が動いたのが見えた。シュアンの濁った三白眼が見開く。
「や、やめろ……」
狂犬と呼ばれるようになってから、命を惜しいと思ったことはなかった。いつだって刹那に生きてきた。危険とは、シュアンにとって、その先の快感を生み出すための手段でしかなかった。
「俺はまだ……」
まだ、なんだというのだろう。まだ、死にたくない、だろうか。――シュアンは自問した。
自らに問いかけ、そして『否』と答えを出した。
「俺はまだ、何も成(な)しちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!」
シュアンは懐に手を滑らせ、拳銃を握る。
「動くな!」
傍らに立っていたイーレオの心臓に拳銃を突きつけた。
「この距離なら、天井から例の人工知能が俺を撃ち抜くより、俺のほうが速い!」
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN