短編集32(過去作品)
そう感じるようになってくると、気がつけばいつもまり子の顔を覗き込んでいた。
「ジロジロ見ないで」
と口では言っているが、まり子もまんざらではなさそうだ。見られることが嫌いじゃない女性もいるようだが、まり子もそんな女性の一人なのかも知れない。
――だったら、じっと見てやろう――
それも男の心理であり、見詰め合うのが楽しくなってくる。
後ろ姿の印象が少ない女性だった。いつも正面を向き合っていたし、正春が部屋に帰ってくる頃にはすでに料理はできている。それ以外で見る後姿といえば、シャワーを浴びている後姿だったり、ベッドの中だったりと、服を着た時の後姿を見たという記憶はあまりない。
華奢な身体かと思ったが、実際に抱きしめると弾力のある身体をしている。手に余ることもなく、かといって、足らないわけでもない。服を着た姿が華奢に見えるので、着痩せするタイプなのだろう。
抱いた感触は、普段の態度のように、正春を包み込むような感じだった。
――このままその胸の中で溺れていたい――
という気持ちにもなっていた。すべてを委ねることが、まり子との性交渉であると感じたからだ。
じっとしていることは、自分ではないと思っている正春は、まり子の身体を自在にまさぐる。身体と身体の間に空気が入らないように必死に擦り寄ってくるまり子が愛おしい。
そんな時、まり子の身体から、まり子独特の匂いを感じる。
――懐かしい匂いだ――
今までに抱いた女たちとは完全に違う匂いだ。それぞれに独特の匂いがあり、違う身体だった。当たり前のことである。
最初こそなかなか抱くまではいかなかった。都合のいい女だと感じたのは、彼女を抱いてからだった。
――どうしてそう感じたのだろう?
今まで付き合ってきた女性はそれぞれお互いの生活を尊重しあってきた。それはそれでいい付き合いだったのだが、尊重していると、必ずどちらかが、寂しくなったり、不安に襲われるものだ。襲ってきた不安や寂しさは、一旦感じてしまうと解消できるものではない。まるで虫歯のように、身体に侵食していくだけだ。正春の方でそう感じることはあまりなかったが、相手の女性が感じることが多い。
「何で別れるんだ? お互いに尊重し合ってきたじゃないか」
と言っても、なかなか決意は固いようだ。
「女というのは、ギリギリまで我慢するけど、ある一線を越えると、どうにもならなくなるものさ」
と言っていた友達がいたが、まさしくその通りだ。
「今までの君は少し女性の気持ちが分かっていなかったのかも知れないね」
とも言われたが、それに関してはピンと来ない。
だが、最近自分の仕事が忙しくなり、まわりを見ないといけない立場になると、彼女たちの気持ちが何となく分かるようになってきた。寂しさが募り、不安が募る気持ちは、追われる立場になってみないと分からないことだったのだ。
彼女たちが一体何に追われているのか分からないが、女性は男性よりも現実的にものを考えることが多いので、不安に陥ると、その先は被害妄想に包まれてしまう。日一日をそのように過ごすかで必死になり、相手の気持ちが却って億劫だったり、かまってくれないと不安になってしまったりする。いわゆる鬱状態というやつだろう。
それを分かってあげられればいいのだが、それまでの正春には分からなかった。鬱状態に陥ったこともないし、かといって相手の態度が急に変わってしまったら、どう対処していいか分からずに様子を伺うことしかできない。すると、
「あなたと一緒にはいられない」
ということになる。言葉が漠然としすぎていて、どう答えていいのか分からず、彼女に対して感じた初めての寂しさにオタオタしてしまっていた。もうその時には相手は開き直っていて、こちらが何を言おうとも、決意が変わるわけはない。
――どうしてそんなにすがすがしい顔で話ができるんだ――
と何度思ったことだろう。それも相手の気持ちの変化に気づかなかった自分が悪かったのだ。
まり子に対してはどうだっただろう?
忙しくなってから知り合った女性ではないが、付き合い始めてからの正春に訪れた変化を分かっているはずだ。だが、何も言わずにいつもそばにいてくれる。だから都合のいい女性と思ってしまうのだが、まり子はそのことについてどう考えているのだろう。
釣り糸を垂れていて思い浮かべるのはまり子のことだ。そんな時に目の前に現れた白いドレスの女性、彼女を気にしている自分がいることに不思議と罪悪感を感じない。
――どうしてまり子と別れたのだろう?
今考えていることは、まり子と別れてしばらくして分かってきたことだ。別れる時の自分が頭の中が一杯一杯で、何も考える余裕がなかった。だが、都合のよい女性だけをまわりに置いておくことへの気持ちがどうしても自分で納得できなかった。辛い時、本当に一人になりたいと思うからかも知れない。
足が攣った時など、呼吸ができないほど苦しい時、まわりに誰もいてほしくないという感情が浮かぶことがある。それに似ているのかも知れないと感じる。
身体の感覚が麻痺するのと、まわりに追い詰められて麻痺する気持ちの感覚が似ているとは思えないが、呼吸が一瞬止まって脂汗がにじみ出る感覚は似ているようだ。そんな時に他人から気にされることは辛いものである。
まり子に感じた匂い、淫靡ではあるが懐かしい匂いは、どこか潮の匂いがした。
「海の近くで育ったから、私もよく釣りに出かけていたわね」
と正春の部屋に置いてある釣りの道具を見つけて話していた。だが一度も、
「一緒に行きましょう」
と言われたことはない。
釣りというものは一人で楽しむものだということを知っているからだろう。
まり子に対して正春が「都合のいい女」だと思っていたことを彼女自身知っていただろうか?
まり子は勘の鋭い女性である。相手の男がそう感じていたのなら分かっていたはずだ。まり子の性格からすると、分かっていたなら少し分かっているような素振りがあってしかるべきだと思う。確かに正春が鈍感だが、それくらいは付き合いの中で分かってきそうである。
――都合のいい女だと感じたのは、別れを決意した時ではないだろうか?
正春は、付き合ってきた女性の中で、彼女だけが正春自身から遠ざかっていった女性だと思っているが、実は違うのではないか。
――自分から遠ざかった――
というふうに思いたいのは、彼女を都合のいい女性だと思ったからである。本当は、自分から別れる雰囲気を作ってしまったことが遠ざけてしまったことへの言い訳にしたかった。一番別れたくなかった相手だからである。
都合のいい女だと感じたのも、きっと最初からではないかも知れない。別れる時になって初めて感じたと今になって思うようになった。
まり子のことを思い出そうとすればするほど、白いドレスが目の前をちらついている。岸壁で赤いバラを持っている女性、そういえば、正春の誕生日にはまり子も赤いバラを用意していたっけ。
もうすぐまた正春は歳を取る。いくつになるのだろう?
なかなか仕事に慣れるということはない。自分の意識がまり子と別れた瞬間から止まってしまっているように思えてならない。
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次