短編集32(過去作品)
そう言って、承服してくれた。気の毒に思ったが、このまま付き合っていてはお互いによくないことに気づいた。
――恋愛というのは、もっと違ったものだ――
そう感じ始めた時に見かけたのが、いつもの喫茶店での白いドレスの女性だった。
決して人を見ようとしない、まわりを気にすることもないくせに、とても目立っている。それだけに却って気になるというものだ。正春としても気にはなるが声を掛ける勇気もない。しかもついその前まで付き合っていたまり子と別れたばかりではないか。
普通の別れ方なら、まだ声を掛けてみようと思ったかも知れない。だが、お互いを見つめなおすつもりで別れたのに、すぐに他の女性に声を掛ける気にはなれなかった。
それは男としてのプライドなのだろうか、ハッキリとは正春にも分からなかった。
まり子と別れてから、間違いなく正春は、女性に対しての感覚が薄れてきた。それまでは、
――彼女がいないと寂しいんだ――
と自分に言い聞かせるようにしていた。実際にまり子と出会うまで、彼女がいなかった時期が少し長かった。焦っていなかったといえばウソになる。まり子と出会えて至福の喜びに身体が震えたものだ。特に尽くすタイプの女性が元々好きだと思っていたので、これほどの幸福はないだろうとまで感じていた。
手放しに喜ぶのもいいが、しばらくすると、不安が襲ってくる。心配性のところがあるせいか、まり子に対してもそうだった。的中してしまった不安は、自分の中にある潜在意識が余計な考えを募らせたのが原因なのかも知れない。それからはもう少し気持ちに余裕を持つことも大切だと思った。
釣りに出かけるのもそんな気持ちの表れでもある。釣り糸を垂れていると、嫌なことやつい深く考えてしまいそうなことを忘れられそうに思う。静寂な時間が果てしなく続く中、余計なことを考えていては、精神的に続かないからだ。他の人が釣りをしている時にどんなことを考えながら釣糸を見ているか分からない。だが、似たような気持ちの人も多いことだろう。
「釣りって短気なやつに向いてるらしいぞ」
と言っていた友達の言葉、今なら理解できるようだ。
釣り場で見かけた最近気になる女性、幻ではないだろうか?
そんな思いが募るのだが、手に持っている花束が真っ白いドレスに映えている。中にはバラもあるようで、少しだけ混ざっている赤が実に印象的だ。花束や白いドレスが気になるというよりも、赤い色を気にしているように思えてならない。
仕事が終わり、一人寂しく家に帰ると、迎えてくれるのが真っ赤なカーテンだった。元々赤色は好きだったが、カーテンを赤にするなどという発想は考えてもみなかった。まり子が買ってきてつけたものだった。
赤が嫌いではない正春が断るわけもない。レースの白いカーテンも引くのだから、それほど目立つわけではないと思ったからだ。実際にまり子と付き合っている時は赤いカーテンを気にすることなどなかった。最初に部屋に帰ってきて明かりをつけてくれているのはまり子だったからである。
帰ってくる部屋はいつも快適状態だった。扉を開けた瞬間、空腹をそそる臭いが玄関まで充満していて、一気に暖かさを感じることができた。リビングの暖かさを玄関先から感じることができるのも、彼女というものの存在が大きかったのだ。
いなくなってしまえばすべてがなくなってしまう。そんなことは百も承知だったはずなのだが、やはり元に戻ってしまったことへの事実の認識にはかなりの時間を要した。それだけまり子の存在が違和感なく部屋に浸透していたことを示すもので、まり子を感じる匂いがあったことを今さらながらに思い出していた。
赤いカーテンもしかりである。
――暗い部屋に帰ってくるから、余計に赤が目立つんだ――
中途半端な都会に住んでいる正春の部屋の前には、郊外型のスーパーがある。郊外型のスーパーというのは、目立たせるために、大袈裟にライトを明るくしているところが多く、正春の前の店も例外ではなかった。
赤いカーテンを通して表の明かりを見ていると、何となく身体が熱くなってくるのを感じる。まり子に感じた熱さなのか、それとも? 自分でも分からない。
たった一人の部屋がこれほど寂しいとは思わなかったが、寂しさだけではない。指先が麻痺してしまいそうな何とも言えない冷たさを感じるのだ。表から差し込んでくる明かりを通して赤が目立つことで、麻痺することまではない。
仕事をしていても時々指先に感じる痺れがあるが、よく考えると冷たくて麻痺している時に似ている。疲れからだと思っていたがそれだけではないようだ。そんな時に部屋に帰ってくると、部屋の奥からまり子の残り香を感じることができる。ローズの香りが好きだったまり子はさすがに赤が好きなだけのことはある。
「私って情熱的なの」
と嘯いていたが、従順なのも考えようによっては一途で情熱的な感情がもたらすものなのだろう。実際の相手だからピンと来なかっただけだ。
――私と一緒にいない時のまり子ってどんな感じなんだろう?
想像したこともない。今まですべてに対し従順だったので、上からの目線からしか見たことがないが、角度を変えるときっと違う女性に見えてくることだろう。そんな時のまり子の表情が想像つかない。今でこそショートカットだが、昔はロングヘアーだったという。お嬢様タイプが目に浮かび、白いドレスの女性を思い浮かべてしまって、その印象以外浮かんでこない。
そういえば、まり子は友達を紹介してくれたことがない。知り合ってからというもの、最初から「押しかけ女房気取り」で部屋にやってきていた。
違和感はなかった。なぜなかったのか、今から思い出そうとしても分からない。女性というものが自分に従順なものだと思い込んでいた時期に、ちょうど現れた女性、それがまり子だった。
――まるでタナボタじゃないか――
こんなにうまく事が運んでいいものかと、却って気持ち悪かった。頬を抓ってみたようにも思う。
「痛い」
涙を堪えながら、声に出したのではなかったか。
あまりいいことが続くと却って不安になるのだが、その時の正春はあまり気にならなかった。
――需要と供給の一致――
という言葉で片付けていた。あまり深く考えたくなかった。
まり子は実に献身的で、決して無理はしないし、痒いところにも手が届くタイプの女性で、初めて部屋に来た時も、
「まるでずっと前からここにいたような気がするの」
と言ったまり子の顔をじっと覗き込むようにして、頭を二、三度深く下げていた。
部屋には学生時代から溜め込んだ本がいっぱい置いてあった。なかなか捨てることができず、溜め込んでしまうので部屋が片付かない。何かのきっかけでもなければ永遠に散らかっているはずだった。
――まり子がいいきっかけになるかも?
そう感じることで、さらにまり子の存在が自分の中で大きくなっていくようだ。
「正春さんは、じっとしていていいの。私がするから」
本当に楽しそうだ。嫌がるところなど見たことがなかった。ここまで献身的な人間がこの世に存在するなど、考えてもみなかったのだ。
――もうまり子なしではいられない――
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次