短編集32(過去作品)
明かりの記憶は、中学生の頃に住んでいた街に流れていた川を思い出させる。近くには工業地帯があり、夜中絶えずついている明かりが風でかすかに揺れる川面に写っていたのを時々見ていたのを思い出した。部活で遅くなった時、疲れた身体を少し休めようと川原に腰掛けていたのも、いつも同じ場所だった。その時は意識していたわけではないが、なぜか同じ場所に座ってしまう自分がその頃から不思議で仕方がなかった。
――中学の頃の記憶が今さらながらによみがえる――
別に不思議なことではないが、同時にいつも同じところに座っていたという不思議が頭を擡げる。今でこそ意識して同じところに座ろうとするが、それも何か縁起を担いでいるような気持ちがあるからだ。中学生の自分が無意識に縁起を担いでいたとも考えにくい。やはり何かに魅入られていたのだろうか。
中学生というと多感な時期、まわりの女性が眩しく見え、却ってまわりの男たちが醜く見える。それは自分を含んでのことで、鏡を見るのが嫌いだった。
鏡を見たくて見たくてたまらない時期があった。
――少しでいいから見たい――
と思って、誘惑に負けてしまうと、鏡に写った自分の顔が一生変わらない醜さのまま大きくなってしまうような気がするからだ。そんなことがあるはずはないと思いながらも信じてしまうところは、やはり無意識に縁起を担ぐ性格だからなのかも知れない。
光る海を見ていると静寂のために耳鳴りがしていたところに、サイレンのような音がかすかだが侵入してきた。
――夜中に聞いた工場の音だ――
あの時はもう少し大きく、けたたましい音だったように思う。それだけ漁村の海は静かで、耳鳴りという余韻が強く耳の奥に残っているからだろう。耳の奥に残った残像が、そう簡単に消えるものではないということは、百も承知の正春だった。
正春は今までに大きな交通事故を何度か目撃している。一生のうちに一度も目撃しないで済む人がどれだけいるかを想像すれば、自分には事故を引き寄せる何かがあるのではないかと憂いてしまう気持ちになるのも無理のないことだった。
工場の近くの金属がはじけるような音、重たくて鈍いその音は、まさしく車がぶつかり合う音に似ていた。耳をふさぎたくなる衝動に駆られ、そのまま瞼を閉じている。
耳に残った音というのは、まわりが静かで耳鳴りがするほどであるほど、幻のように感じられる。耳鳴りとはそういう効果も兼ね備えているのかも知れない。
遠くを見つめて釣りをしていると余計なことまで考えてしまう。特に事故を目撃した時の感覚を思い出してしまった時など最悪で、釣った魚の血を見るだけで嘔吐を催しそうになる。あまり遠くを見ないで、糸が垂れているのだけを見ていればそんなことはない。普通逆ではないだろうか?
明るい時間であれば遠くを見つめている方が気が紛れるくらいだ。暗いとどうしても闇を意識してしまい。闇の向こうに広がっているさらなる闇を思い起こしてしまいそうで、気持ち悪いのだ。自分の両側に鏡を当て、一方の鏡を見ていると、そこから先は無限に映し出された自分を見つめることになる。
当たり前のことだが、皆同じ表情だ。
白い歯を見せれば皆同じように白い歯を見せている。気持ちの変化を敏感に感じることができるとしたら、きっとそんな環境に身を置いた時ではないだろうか。しかし一歩間違えばその状況から逃れるすべを失って、無限に広がる世界から逃げられなくなってしまいそうで恐ろしい。そんな環境を思い浮かべること自体がおかしいのであって、自分が本当に正常な人間なのかを疑いたくなっている時があるくらいだ。
風が少し吹いてきた。
「ザブンザブン」
という海面が防波堤を叩く音が小気味よく響いていて、正春はこの音が好きなのだ。
耳障りは最高で、睡魔が襲ってきそうである。釣り糸を垂れながら聞いていると、本当に眠ってしまいそうで怖い。
浮きが浮いたり沈んだりしているのを見ていると、広がっていく波紋に目を奪われてしまう。灯台の薄暗い明かりの向こうに立っている女性の後姿。髪が靡いているところを見ると明らかにそこは風が強そうである。
一瞬、真横に髪が靡いて、横顔が映し出された気がした。
――どこかで見たことのある女性だ――
と感じたのもつかの間だったが、その顔に表情はない。
――何も考えていない時って、本当に表情がないんだ――
と感じたのは、自分が知っているその顔には、満面の笑みの印象が残っていたからだ。表情に変化のないその顔が同じ人間ではないかと、よく感じたものだ。自分でも不思議である。
あれは確か自分にとって、「都合のいい女」だった。
それまで純愛ばかりを思い浮かべ、純愛に何度裏切られたことだろう。
――でも、結局純愛しかできないんだ――
と思っていたのだが、一人の女の出現で、気持ちが変わってしまった。
「正春は本当に女性に尽くすのに、どうしてモテないんだ?」
と、友達からいつも不思議がられていた。いつもまわりにいるのは、同じような性格の連中なので、皆のいうことが偏った意見であることは分かっているつもりだったが、意見されれば、それをそのまま受け取るのも正春の悪い癖だった。だが、悪い癖だと思わずに、今まで過ごしてきた正春にとって、彼女の出現はまさに衝撃的だった。
尽くすタイプの正春と同じような性格の女性に思えた。最初はウザいくらいの相手だと思ったのは、きっと彼女の方が尽くす度合いが強かったからだろう。今までの相手は、正春ほど尽くすタイプではなかったので、正春からすぐに離れていった。今自分が今度は相手にウザさを感じているので分かるのだが、その頃は、
――どうして皆自分から離れていくんだろう?
と悩んだものだ。こうやって考えてみると理屈はよく分かる。だが、分かったからといって治るものではなく、却って精神的に追い詰められるような気分に陥ってしまうように感じる。
その女の名前は、まり子と言った。まり子を見ていて、
――今までに男性と付き合ったことがないんじゃないか――
と思えるほどウブなところがある。だが、人並みに男性と付き合ってきたという話を聞くと、思い過ごしであるとともに、自分の目もさぞかしおかしいのではないかと苦笑していた。
そういえば正春だって他の女性に同じことを思われていたことだろう。正春の場合は、自分が成長していないからだと思っているが、まり子の場合は分からない。聞くこともできないほどウブなのだ。
男に尽くす女性を見て育ったのなら合点はいく。
「お母さんはお父さんに尽くす人だったの?」
「ええ、見ていて気の毒なくらいにですね。最初はそんな母が嫌いだったんだけど、今ではいろいろお母さんに話を聞いてみたいくらいなの」
まり子の母親はすでに三年前に亡くなっている。話を聞きたいなどということは無理なのだ。
まり子とはしばらくして別れた。初めて正春が女性から離れたのだ。
まり子は正春にとって都合のいい女性になっていた。女性が男性を利用することはあるが、まり子は自分が利用されているのが分かっていたのかどうか分からないが、正春の別れの言葉を意外と簡単に受け入れた。
「あなたがそういうなら……」
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次