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短編集32(過去作品)

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瞳の中の私



                  瞳の中の私


 とある喫茶店で女性同士が話しているのを聞いていたが、どうしてあそこまで馬鹿げた話ができるのだろう?
 イケメン芸能人がどうの、俳優の不倫がどうの、実にくだらない話に花を咲かせて、大きな口を開けて笑っている。情けないったらありゃしない。私ならそんなに大きな口は開けないし、まして馬鹿げた話に乗ったりなどしない。
 その日、打ち合わせを兼ねて喫茶店でコーヒーを飲むことにしていたのだが、相手が急に予定が入ったということで、私も予定が空いてしまった。そのまま部屋にいてもよかったのだが、どうせならそのまま朝食をと思い、待ち合わせするはずだった喫茶店まで足を伸ばした。
 私はアルバイトをしながら劇団で演劇を続けている田代那美という。打ち合わせの相手は劇団の取りまとめをしている前橋幸二という男性で、いつも打ち合わせを兼ねて朝食をともにしていた。その日も、
「少し相談があるんだが、いいかい?」
 ということで、
「じゃあ、いつものように、いつものところで」
「よし分かった。ついでに劇団の打ち合わせもしておこう」
 という話だったのだが、急に予定が入ったのでは仕方がない。幸二さんも劇団だけではなく、普段は営業の仕事をしているので忙しい身体である。彼が忙しい時の代行は私がやっていて、副代表のような立場になっている。
 幸二さんと私はどういう関係といえばいいのだろう?
 恋人同士? それともお友達? 
 いろいろ考えたが、世の中には実に都合のいい言葉が転がっているものである。
「友達以上、恋人未満」
 ではないだろうか?
「以上」というと友達も含まれる。「未満」といえば、恋人は含まない。そう、私たちは恋人と言えるまでの関係ではない。少なくとも私はそう思っているが、きっと彼も同じだろう。彼の方がもっと冷めている。
 もちろん身体の関係はある。最初はそんなつもりはなかったはずなのだが、お互いに気持ちが盛り上がっていた。
――最初から予期していたような気がする――
 と感じた時には、すでに私は彼に身を預けていた。頑なまでに硬く閉ざした唇を、彼は強引に開こうとはしない。あくまでもソフトに、そしてソフトにされるほど、女の身体というのは反応するものだ。私の方が業を煮やして唇を開けた。
 この時とばかりに一気に唇への侵入を試みる。そこから彼は男になるのだ。ここまでくれば少々強引なくらいの方が、私の頑なな部分は自然に開かれていく。彼にすべてを任せることが、その場の雰囲気に酔ってしまった私にできる唯一の行動なのだ。ささやかな抵抗、そんなものはそこには存在しなかった。
――これでも女優のつもりなのに――
 とはいっても相手も俳優、どこまでが本当の自分か分からない。気持ちの昂ぶりが最高潮を迎えようとしている中で、そんなことを考えている自分が嫌だった。
――どうして、場の雰囲気に呑まれようとしないんだろう――
 不思議で仕方がない。女優を志す者の悲しい性なのだろうか?
 だが、今まで知らなかった世界は新鮮であった。溶けてしまいそうな身体が自分のものだという自覚すら感じなくなっていた。
――何も考えられない――
 と感じた時に、私は彼と一つになった。終始無言で私を抱いている彼は、一体何を考えていたのだろう?
 すべてが終わってからの彼は優しかった。すでにいつもの彼に戻っていて、何事もなかったかのように私の顔を見つめている。
――恥ずかしい――
 そんな感覚になったのは久しくなかったことだ。女優を目指し始めた時から自分をなるべく表に出さないようにしようと思っていた私がこんな気持ちになるなんて……。大人になったということだけで片付けられない何かを感じた。
――これが愛なのかしら――
 普段、演劇では愛情を表に出すような役がまわってくることもあったが、いつも自問自答を繰り返していた。
――経験もないのに、私にできるはずもない――
 それでも演じるのが女優、自分の演じることに自信を持つことで役になりきれる。だが、恋というものへのイメージが間違いであったことに、その時初めて気付いた。
 それからの幸二さんのことは、手に取るように分かった。彼が分かりやすい性格であるとともに、私自身、
――自分のことは分からなくても、人のことがよく分かる性格――
 だったからである。
 彼は、個人的には実に分かりやすい人である。甘えん坊なところがあったり、しっかりしているところはしっかりしている。基本的に正義感が強く、理不尽なことが許せない性格。そんなところに私は惹かれたのだろう。
 ただ一つ不安なのが、彼にとっての理想の女性が私ではないのではないかと思えることである。清楚で落ち着きのある女性が好みの彼にとって、同じ俳優で少し活発なところのある私をどう思っているのか、それが不安だった。それだけに、
「付き合ってください」
 と私も自分から言いにくい。
 彼が好きだと感じたのは、彼に抱かれる前からである。好きだという気持ちがなければ、いくら気持ちが高揚していたとはいえ、身体を許すわけがない。彼が一体どういう気持ちで私を抱いたのか、それが知りたい気もするが、確かめるのも怖いのだ。
 私を抱いてからの彼は、それまでと態度を変えることもない。むしろ意識したのは私の方で、そんな私に気遣っているのか、一切意識していないように振舞ってくれる。
 それから彼が私を食事に誘ってくれる回数が多くなった。だが、彼が私を求めてくることはない。食事をして、バーでゆっくりとお酒を呑む。雰囲気はそれなりに盛り上がっているのだが、彼は誘ってくれない。そんな態度に少しホッとした気分になりながら、私の中の女の部分が苛立ちを覚えている。
 アルコールが程よく効いて火照った身体を持て余しながら、部屋の前まで送ってくれる彼。私にとって束の間の安息の時が終わりを告げようとしていることで次第に苛立ってくる私を、彼は優しく抱きしめてくれる。しかし、それだけなのだ。マンションの前から後ろを振り向きもせずに去っていく彼の後姿を、ただ見つめているだけの私は、一体どんな顔をしているのだろう。
 ここまでくれば恋人同士と呼んで無理はないかも知れない。しかし私は敢えてそれをせず、彼もそこまで考えていない。
 もし思っていれば、彼のことだから、口に出して気持ちを伝えるに違いない。気持ちを黙っていることを一番辛いと言っていた彼である。今、私のために必死に気持ちを押し殺しているのだとすれば、私はどうしたらいいのだろう。
 彼は不器用な性格だ。
 自分の気持ちを曝け出すことが多い彼は、往々にして誤解されやすいタイプである。
 時々、
「きつい、だるい」
 などの言葉を発して、まわりをドキッとさせることがある。もちろん無意識で、本人も気付いてバツの悪そうな顔になるのだが、言ってしまった言葉が戻ってくるわけではない。
「きついのは皆一緒なんだよ」
 とでも言いたげなまわりの視線、それを感じてさらにバツの悪そうな表情になる。
「ああ、また言ってしまった」
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次