短編集32(過去作品)
だからといって普通の会社に入社して、歯車の一部のように働くことが本当に自分を満足させてくれることなのかも疑問だった。自分が満足できない仕事はしたくないと思うのは門倉に限ったことではないだろうが、門倉の思いは強いものだ。ハッキリと自覚することで、さらに自分を表現しているのかも知れない。
「え? 私、実は教師なんですよ」
驚いたように返事を返してきた純子だったが、返事の内容からすれば間髪入れずに返してきそうなものなのだが、そこに少し間があったような気がする。門倉の思い描いている会話のテンポとは、どこかが違っているようだ。
「そうなんですか。いろいろご苦労もあるんでしょうね?」
探りを入れるような聞き方になりそうだと思ったのが、なるべくアッサリと聞いたつもりだった。
「ええ、それはもう……。人には言えない苦労があるんですよ。でも、私だけではないですからね」
後の方の、
「私だけではない」
というセリフに、ビクッとなってしまった。言い訳になりそうなのを、自分の中で和らげたつもりだったのだろうが、門倉にしてみれば、
――そうか、どんな人でも教師になれば苦労はあるんだ――
聞き手なら誰しも感じてしまうことだが、特に教師になりたいとずっと思ってきた門倉には少し重たい言葉であった。まだ学生気分が完全に抜けたと言えない時期だっただけに、その思いはひとしおである。
「どうしても縁の下の力持ちというイメージが抜けないのですが、実際にはどうなんでしょうね?」
「それは言えると思いますが、それは気の持ちようですね。私は普通にOLをしたことがないので分からないのですが、OLをしていても、結局縁の下の力持ちから脱却できないんじゃないかしら。それだったら最初から目標に向かって努力してきた今の仕事の方が、自分の中で納得いくと思うんですよ」
「確かにそうですね。私も今のサラリーマンの仕事をしていて、何度も疑問に感じることがあります。でも、趣味と実益を両立することが難しいように、夢を実現するために感じる矛盾や、見えなかったことが見えてきた時の気持ちを考えると、夢を叶えることが本当に自分のためかどうか分からなくなってしまいそうなんですよ」
「仕事に関した夢を持つと、どうしても逃げられないプレッシャーを感じますね。本来なら趣味とすべきものを仕事にしてしまったような感覚でしょうね」
「でも、それこそ覚悟がどれだけできているかということでしょうね。特に相手のあることは……」
「生徒を自分の夢の道具にはできませんからね。皆人それぞれ違うんです。教師をしていると身に沁みますね。自分が生徒の年頃に何を考えていたかが唯一手探りな中での糸のようなものだと思っています」
夢が叶うとまた次の夢を見る。どんどん膨らんでいって次第に現実では満足できなくなるのではないかという危惧は持っていた。夢を叶えるには、そういったリスクもともなうのだ。
門倉は女性に興味を持つのが他の男性に比べて遅かった。だが、それは女性に興味を持つということ以外でも同じで、いろいろとウブだったのだ。
女性というものにまだ興味のなかった頃、中学に入ってすぐだっただろうか、聞きたくもないのに、悪友から授業中などに女性の身体についていろいろと耳打ちしてくる。興味はなくとも身体は正直で、何となくむず痒くなる身体を抑えきれなくなるが、その理由がハッキリと分からない。そんな門倉に対して悪友はほくそえんでいたに違いない。
それでも女性の身体が神秘的なことだけは分かった。自分の身体が次第に変化していき、自分でも抑えることのできない欲情のようなものがあることを、門倉は友達の話から知るのだった。
中学では男子校だった。小学生の頃に突然勉強に目覚め、実力を試したいという程度での中学受験だったが、あまり無理しない程度の受験だったので、それほどの有名校ではなかったが、名門校としては人気のある学校だった。
中学に入学するまでの門倉は有頂天だった。小学校での成績はいつもトップクラス。努力がそのまま成績に現れるのだから、こんなに楽しいことはない。下手をするとついつい自分が他人に比べて何もかもが優れていると思いがちで、まわりに対して歪んだ優越感を持たないとも限らない。
実際に何度か自慢げな態度を取って、まわりに不快感を与えたこともあったようだ。ある程度は見逃してくれた先生も度が過ぎると忠告にやってくる。人から注意を受けると必要以上に恐縮してしまう門倉が、
――責められているんだ――
と思ってしまったのも仕方のないことだったに違いない。
だが、そんなことで治る性格ではなかった。性格から来るものを治すにはやはりまわりの環境が変わらないとだめだったのだ。だが、それが夢叶って入学した学校で身に沁みて分かるようになろうとは、何とも皮肉なことだった。
中学に入るとまわりは皆同じように受験を乗り越えて入学してきた連中ばかりで、どの顔にも自信が満ち溢れているように見えた。他の人から見て門倉もきっと同じような顔をしていたはずだ。だが、そんなことは自分では分からない。最初からまわりい萎縮してしまったのだ。
話を聞いてみてもさすがに小学生時代の会話とはまったく違い、さすが勉強をしてきた連中の集まり、雑談すら勉強の話だった。小学生時代にはそんな会話の中に入ることを夢見ていたはずなのに、いざ輪を表から見ると入れる雰囲気ではない。最初から輪の中にいなければ、入ることのできない殻のようなものが見えてくるのだ。
しかも知らなくてもいいのに、おせっかいな友達もいるもので、入学試験の順位をどこで聞いたのか言いふらしているやつがいた。
「お前はかなり下の方での入学だったんだぞ」
などと言われて、
「ええい、これから勉強して見返してやる」
と口では言ったが、そいつの落ち着き払った表情を見ていると、気力が抜けてきて、力が入らなくなってくる。まるで「ヘビに睨まれたカエル」状態である。
――いくら勉強してがんばったって、やつらに追いつくことなどできないんだ――
と考えた理由のもう一つは、勉強に対しての概念が変わったからだ。受験を乗り越えてきた学校のわりに猛勉強をするようなところではなかった。どちらかというと個性を生かすことを目的とした学校方針があるようで、押し付けではなく学問としての勉強を教える学校であった。卒業生に作家や画家といった有名人が芸術家に多いのもそのためだろう。
かといって小学生時代、受験のために勉強だけしてきた門倉に、気持ちの転換は難しかった。しっかり順応して美術部や文芸部でがんばっている連中もたくさんいて、見ていれば羨ましかったが、その輪の中にいる自分を想像することはできなかった。
――所詮、中途半端なんだな――
勉強でも芸術に対しても気力がない。勉強に関しては気力を失ってしまったといえるだろう。
――どんなにがんばっても上を見ればキリがない――
その気持ちは、それからの門倉の人生において、随所に現れてきたものだ。今となってみれば
――もっと早いうちから何とかならなかったのか――
と思えてならない性格の一つである。
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次