タイムアップ・リベンジ
静香と一緒にいると、加奈とのことは結構思い出すのに、幹江とのことはあまり記憶から引き出すことはできない。確かに覚えているはずだという意識はあるのだが、いざ思い出そうとすると、真っ白な霧に包まれたような感覚になる。まるで一部だけ記憶喪失になったかのようだ。
――きっと幹江とのことを思い出せないから、静香と一緒にいることができるんだろうな――
幹江に対して、何か後ろめたさがあるわけではない。思い出せないのが後ろめたさのためではないことは分かっているつもりだ。ただ、加奈と付き合っている時、幹江に対しても自分の気持ちが靡いた時があった。それを幹江が意識していたのを、俊治は分かっていた。
加奈は俊治と別れてから、本当に結婚したようだ。時期から考えると、俊治は二股を掛けられていたことになる。どう考えても俊治には自分が二股掛けられていたなどという意識はない。ある意味、
――おめでたい性格――
だと言えるだろう。
だが、それからすぐに離婚したと聞いた。噂だから何ともいえないが、そのおかげで、少しだけでも溜飲が下がったと言えるだろう。
もし、加奈が幸せな結婚生活を送っていれば、加奈のことを記憶の奥に封印して、記憶として表に出すのは、幹江のことだったかも知れない。さらに、ネットに嵌ってから付き合うことになる相手は、亜季ではなかっただろう。きっと主婦だと思った時、近づくような真似はしないからである。いくら結婚生活に疲れ果てている亜季とは言え、少しでも家庭の味を知っている人を好きになったりなどしないと思ったからだ。
静香と一緒に暮らすようになって早五年、相変わらず毎日を無為に過ごしていたが、ある日、俊治に対して熱い視線を感じた。その視線は、その時が初めてではない。今までに何度も感じたことのあるものだ。その視線はいつも同じ方向から当たるもので、振り返ってみると、そこに視線を浴びせているような人はいなかった。
同じ方向とは、右斜め後ろである。しかも、振り返ったところは、人がいることができないような場所で、視線を浴びるなど考えられることではなかった。
――でも、この角度からのこの視線、どこか懐かしさを感じるな――
と思った。
その視線を感じたのが、何年前のことだったのか、すぐには思い出せなかったが、よく考えてみると、一度や二度ではない。数年間にわたって、何度も感じていたことだった。
想像するに、その相手は幹江だった。今まで自分と関わった人を消去法で考えていけば、行きつく先は、幹江しかなかった。
実際に視線を感じるほど印象的な人というと、さほどいない。幹江のように、記憶としては鮮明に思い出せるわけではないが、印象が深かった人は今までにいなかった。
それだけ加奈の印象が深かったというわけではない。しいて言えば、加奈と幹江とでは、完全に正反対だったというべきであろうか?
性格が正反対だったというよりも、鏡に写った左右対称のイメージが強い。右手を挙げれば、相手は左手を挙げている。これは、運命というよりも、宿命とでも言った方がいいのかも知れない。
性格という意味では、どこか似たところがあった。
ただ、それは俊治の方から見たからであって、他の人が見ると、正反対に見えるかも知れない。
――それだけ見る位置が違っているということだ――
幹江は、いつも同じ方向から自分を見ていた。それが斜め後ろからだったということを、加奈のことを思い出しながら考えると、分かってきたのだ。
――幹江のことを思い出そうとするには、加奈のことを思い出さなければいけないのだろうか?
二十五年前には、明らかに二人はそれぞれの特徴を俊治に見せていた。俊治も二人の性格を感じながら、自分に照らし合わせてみたものだ。
だが、二十五年が経って、当時を思い出すと、
――加奈と幹江、自分の中では二人合わせて一人のような気がする――
と感じるのだった。
それはまるで、一人が光で一人が影のようであり、しかも、その光と影が時々入れ替わっていたかのような感じである。その時々で入れ替われる光と影は、二人に接点があったわけではない。あくまでも、俊治を通して二人は同じ視界の中に入れるのだった。
だから、今は加奈のことが思い出されて、幹江のことを記憶が封印している状態だが、何かが変われば、逆になるということもありえる。ひょっとすると、俊治が記憶している二人自体が、記憶の中で入れ替わっているのかも知れない。
そんな時に感じた俊治の斜め後ろからの視線。それは幹江のものだった。それまでその姿を見ることができなかったが、今回は、その姿を見ることができた。
「幹江」
思わず声を掛けたが、そこに立っていたのは、俊治の記憶の中にある幹江だった。
つまりは、二十五歳の幹江であり、俊治が知っている幹江であるはずはなかった。
「俊治さん」
彼女の口は、確かにそう動いた。
彼女は和服を着ていた。その姿は自分が知っている時代の服装ではない。昭和初期くらいの姿と言ってもいいだろうか? そう感じるだけでも幹江ではない。
「君は一体誰なんだ?」
「私よ。山田幹江。あなたの知っている私でしょう?」
「確かにそうだけど、服装といい、今の君の年齢といい、どう考えても僕が知っている幹江ではないんだ」
「そうかも知れないわね。私もあなたの前で和服を着たことなんかなかったし、あなたは今五十歳。私は二十五歳。どうしてなのかしらね?」
そう言って、幹江は笑っている。
俊治はとても、この状態で笑うことなどできるはずもない。幹江だけを見ているつもりだったが、よく見てみると、まわりは二十五年前の風景に変わっていた。背中から差し込んでくるような夕日は、今と変わらないはずなのに、背中が熱いほど痛さを感じる。
「どうして、こんなに痛いんだろう?」
「それはね、あなたが今まで何も感じないようにしようとして生きてきたからなのよ」
俊治は、痛いという感情を口に出したという意識はない。
「えっ、どうして僕が痛いという思いが分かったんだい?」
「私には分かるのよ。だって、ここはあなたの頭の中の世界だから、あなたのことを少しでも考えれば、私には手に取るように伝わってくるものがあるの」
幹江にそう言われて、初めてハッとした。
――そうか、これは夢の世界なんだ――
夢の世界だというと、
――何でもあり――
というイメージがあったが、不思議なことは起こっても、それは潜在意識の中にあることだけである。しかも、俊治は普段から、あまり何かを意識しようとしているわけではないので、潜在意識も自分の想像というよりも妄想の方が強く描かれている。
――ということは、今までの斜め後ろからの視線の正体は、夢の中の幹江だった――
ということであろうか?
俊治は、自分の夢の中で幹江を見ていたことになるのだが、今までにも同じような夢を見たことがあったような気がした。
あの時の続きを今日見たのだったが、果たして夢の続きというのを自分の夢の中で見ることができるものなのだろうか?
そう考えてみると、以前に見た夢だと思っているもの、それは夢は夢でも自分の夢ではなく、
――幹江の夢の中に入りこんだ――
作品名:タイムアップ・リベンジ 作家名:森本晃次