タイムアップ・リベンジ
そのことも最初は分からなかったが、分かった時にはすでに遅く、別れるしかなくなっていたというのが真実だったのかも知れない。
幹江とは今までに付き合ったという感情はなかった。それなのに、
――一番気持ちが通じていた相手だ――
と感じたのはなぜだろう?
幹江に姉のような感情を持っていたのは、
――幹江には、心の奥を覗いても構わないと思えるところを見ることができない――
という感情であった。
相手には知られたくない部分があり、そこを見ようとはしなかったが、それ以外のところは見てもいいと思い、見てみようと試みることはあった。しかし、幹江に関しては、知られたくない部分だと思って見ていたにも関わらず、中に入りこむと、まるで入り込まれるのを待っていたかのように、包み込もうとするものがあった。
――しまった。罠かも知れない――
戻ろうとしても、戻ってくることができない。しかし、入り込んでしまった感情を感じることはできた。
――自分の身体から離れた感情がもう一つ別の場所で存在している――
というおかしな感情が生まれたのだ。
――その感情は、いまだに幹江の中で生きている気がする――
五十歳になった俊治は、そう感じていた。
もう一つの感情が存在していて、その気持ちが他で確かに生きているというのは、幹江に対してだけだった。
俊治は、その感情が遠くなったり近づいたりしていたことに気が付いていた。それを、
――二人の気持ちの距離と比例しているんだ――
と感じていた。
二人の距離は、幹江の存在を感じている間、遠くなったりも近づいたりもしていた思いはない。加奈と付き合っている間であっても、俊治は幹江との距離が近づいたり遠ざかったりした感覚はなかった。加奈と別れることになって、幹江を恋しく感じるようになった時でも、この気持ちが感じている距離が変わることはなかった。
――だからこそ、幹江を求めることができたんだ――
と感じた。
幹江のことは、ずっと好きだった。
――愛している――
という感情とは少し違っていたように思う。
オンナとして見ていなかったわけではないが、セックスしたいほど相手を求めたわけではない。
いや、別の意味で求めていた。身体や精神などという言葉で表すことのないものが、幹江との間に存在していたように思う。
――男女の間で、気持ちと身体以外に何があるというんだ?
俊治はそう思っていたが、
――じゃあ、男女の関係ではなかったのかも知れないな――
好きだという感情が、恋愛感情とは少し違っていたことは分かっていた。
――では、何だっていうんだ?
と思うようになった。
男女の関係という言葉で表してしまうと、それ以上でもそれ以下でもないことを公言しているように思えてならない。
恋愛の行きつく先があるのだとすれば、さらにそれ以上を求めることはできない。求めるのであれば、
――別れを意識しないわけにはいかなくなるんじゃないか?
と感じていたのは、俊治だけではなく、幹江の方もそうだった。
だが、幹江の方は、俊治よりも、さらに冷静に見ていた。
――別れも仕方がない――
と思っていたのだ。
俊治は幹江が自分の前からいなくなることを考えたこともなかったが、幹江にしてみれば、俊治が自分の前からいなくなることを感じていた。そこが、
――冷静になれるかなれないかの違い――
だったのだ。
俊治と幹江の別れは、意外と簡単だった。
あれだけ、
――幹江が自分の前からいなくなることは考えられない――
と思っていたくせに、実際に自分の前からいなくなった幹江に対し、口惜しさはなかった。
幹江がいなくなったというのは、
「私、今度結婚することにしたの」
という今までなら信じられないことを言われた時だった。
「えっ?」
確かに目の前が真っ暗になった。まったく予想もしていないことだったからである。しかし、悔しそうな表情を幹江の前でしてはいけないことは分かっていたように思う。何とか平静を装ったが、その時に何を話したのかなど、覚えているはずもない。
平静を装ったというのは、本当は自分の中だけでに感情であり、実際にはそのまま気絶していたということである。
「まさか、俺が?」
「ええ、そう」
話を聞かされた店の奥にあるソファーで目を覚ました。一時間ほど気絶していたようだ。
「救急車呼びましょうか?」
と言ってくれた店の人のことを制して、
「いえ、大丈夫です。ちょっと疲れていたんでしょうね。すぐに目を覚ますでしょうから、すみませんが、目が覚めるまで、このままにしてあげてください」
と、幹江が話したようだ。
「冷静な彼女さんですね」
と、後でマスターに言われたが、気絶したことの情けなさが頭の中で、今度は自分を冷静に持っていくことに繋がったというのは皮肉なことだった。
――気絶したことだけで、冷静になれたわけではないが――
冷静になれたのは、初めて自分の中で「孤独」という言葉を意識できたからなのかも知れない。
「孤独」という言葉、それまでにも何度も意識はしていた。しかし実際に自分に降りかかってきたのは、その時が初めてだった。ある意味、覚悟はできていたのだ。
実際に孤独を感じてみると、
――まんざらでもない――
と思うようになった。
以前の俊治なら、自分の好きな相手が結婚するなどと言われたら、
――きっと取り乱して、情けない態度を取るに違いない――
と思っていた。
それは、未練からではない。
――このまま、黙っておくのは後になって自分の後悔に繋がる――
と思ったからである。
――少しでも抵抗しなければ、自分を許せなくなる――
という思いから、取り乱すのだろうが、一度取り乱してしまうと、今度は、客観的に見ている自分の目が、可哀そうに見えてしまうのだ。
――自分のことを自分で可哀そうに思う――
この感情は、主人公の自分としては、今の気持ちに正直に生きるしかなくなってしまうのだった。それが、俊治の本当の気持ちだからである。
幹江の結婚は、冷静になって自分を考えることができた初めてのことだったかも知れない。しかし、逆に、
――自分に対して正直に生きる――
ということを考えるきっかけになった最初の時だった。
そのせいもあってか、俊治は二重人格になってしまった。
相手を冷静に見なければいけないと思う自分と、自分の気持ちに正直にならなければならないと思う自分。
ただ、基本的にはその二つが同じものを目指してさえいれば、それでいいだけのことだった。双方が相容れないというわけではなく、
――自分に正直になった結果、相手を冷静に見れるようになった――
ということもあれば、
――相手を冷静に見ることができたので、自分に正直になれたことに気がついた――
ということでもある。
しかし、そう考えてみると、最初に相手を冷静に見ることができなければ、自分は正直になれないように感じるが、実際は逆である。
――気が付いた――
ということは、自分に正直になることができなければ、冷静に見ることはできないことになるのではないか。
――気が付くということと、結果に繋がることは別なんだ――
作品名:タイムアップ・リベンジ 作家名:森本晃次