短編集31(過去作品)
横から口を挟んだのは、大学を卒業してまだ二年足らずの、まだ新人と言ってもいいくらいの人だった。私と能代氏の話を聞いていて、口を挟みたくてウズウズしていたようだ。そういえば今まで、私が勝手に意識の外においていただけである。それだけ能代氏と話し始めるとまわりが見えなくなるのだろう。
「おかしな表情とは? 僕にはあまり分からないけど?」
するとさらに捲し立てるように、
「どういえばいいんですかね。とにかく神経質を絵に描いたような人で、時々じっと人を見ている時の顔が次第に変わっていくんですよ」
「それは能代くんが今言ったシチュエーション?」
「そうですね。じっと見つめられた人はなぜか気がついてないらしいんですけど、まわりの者がやたら気になるんです」
すると、さっきまで黙って聞いていた他の連中も同じように「うんうん」と頭を下げている。どうやら信憑性のある話のようだ。
「それも不思議な話だね。それじゃあまるで見つめられた人は催眠術に掛かっているみたいな感じなのかい?」
「それとは少し違うようなんです。見つめられた人は普通に仕事しているんですよ。見つめられた人が意識していれば、視線が気持ち悪いってだけで許されるんですけど、気がつかないとなるとですね。却って不気味で、人に話すのも憚ってしまいますよね」
酒の席だから出た言葉だろう。皆タブーとしてきた話題だったが、封印が解かれ誰かが話し始めると、あとは堰を切ったように水が流れ出すだけだった。
「その時の中山さんはどんな顔に変わっていくんだい」
さすがに私も興味を持った。ひょっとして私も知らない間に、見つめられているかも知れないと感じると気持ち悪くなった。
「まるで般若の形相というべきなんでしょうか。歯を食いしばっているようで、あれだけ噛みしめればさぞかし瞳孔も開いているって感じですね」
と一人がいうと、
「私にはまるで凶悪犯の表情に見えるな。あれはきっと前世で人を殺したことがあるんじゃないですかね」
この場でなければ、きっと突拍子もない話として聞き流していただろうが、まんざらではないと感じたのもまわりの雰囲気が成せる業。私は目を瞑って普段の中山氏を思い浮かべていた。
――大体の雰囲気は浮かんでくるな――
と感じると、実際に凝視されているような錯覚を感じていた。
いや、それは中山氏から凝視されていたのではない。はるか昔、いつ頃のことだったか覚えていないほど、私にとって昔のことだった。
――いきなり表情が変わるシチュエーション――
ということであれば、感じた相手は女性だった。それも一番身近な人、自分の母親である。
母親に関しては完全に自分の中で自覚があった。実際に喜怒哀楽を表に出す人で、よく父親と喧嘩になっていたのを覚えている。父はどちらかというとあまり表情を顔に出す方ではないが、母と喧嘩するときだけは、負けてはいなかった。
私は母が好きだった。父と喧嘩をする母は嫌いだったが、普段の楽しそうな顔を見ているだけで、私を楽しい気分にしてくれる。冬が終わってやってくる春に香りがあるように、花の香りを運んでくる温かさを含んだ風のようなものを母に感じていた。
私が美奈子と知り合った時に、すぐに、
――こんな人が恋人だったら楽しいだろうな――
と感じたのは、母の顔を美奈子に見たからだ。
「あなたといると私、素直になれるの」
この言葉、人とは違う見方で私を見ていることと思っただけで、きっと母と同じ気持ちでいてくれるだろうと感じたのだ。
――美奈子のいう素直ってなんだろう――
思い浮かべてみるが、なかなか形となって想像するのは難しい。別に想像する必要などないのだろうが、目を瞑ると浮かんでくる美奈子の表情は完全に母の楽しそうな顔を思わせるものだった。
「広沢さんって、あまり感情を表に表わす人じゃないわね」
「そうでしょう。だから秋田さんと一緒にいて、どんな会話をするのかって分からないのよね」
これは美奈子の同僚が話してくれたことだ。私にとっては不思議なことだった。想像もできないことだといってもいい。あれほど喜怒哀楽の激しい人はいないと思う美奈子を、他人は違う目で見ているようだ。
確かに喜んだり楽しんでいるところしか知らない私なのだが、これだけ表情も豊かだと、怒ったり悲しんだりする姿も何となくだが想像できてしまう。それだけ私は美奈子の表情にいつも思いを馳せているのだろう。
母親と美奈子、私にとって一番感じていたい共通点を持った二人である。それは、この二人ほど一番表情の豊かな人はいないと私自身が感じているからだ。
では、私は二人にとってどんな表情に写っているのだろう。
母親から想像するのは難しい。どうしても自分の腹を痛めて生んだ子供という意識が働くであろうし、いつまで経っても息子だという気持ちが抜けるはずもないからである。なぜなら永遠に年齢の差が縮まることがないのと同じで、追いかけても決して追いつくことのない存在だからである。
しかし、そんな母も二年前に他界した。私にとっての母の優しい表情、それは永遠のものになってしまったのだ。最後は病院のベッドだったが、その表情は安らかで、私を見上げる表情はいつもの母の表情だった。そのまま永遠に安らかになったのである。
「あの方の最後の表情……、あんな安らかな顔って初めて見ましたわ」
告別式で、一緒に母の最期を見取ってくれた親戚の叔母さんが話してくれた。
「きっとそれだけ久志くんの成長に安心していたんでしょうね。私もあの顔を見て初めて安心したのよ」
という言葉が続いた。
「僕は母の安心したような表情、いつも見ていますよ」
という言葉を喉の奥で押し殺していた。
母が近所の人にとってどんな人だったかあまり知らない。しかし、告別式に来ていた人の話を聞いている限りでは、物静かであまり表情を変える人ではなかったというのが、大方の人の反応であった。私の前でいつも笑ったり泣いたり、怒ったりしていた母は、皆から冷静に見られていたようだ。
――他の人の知らない母を私だけが知っている――
親子だから当たり前のことなのだが、死んでしまった母は、永遠に私だけのものになったような気がした。きっと告別式が終わって、しばらくすると、告別式に参列してくれた人の大半は、母のことなど忘れてしまうことだろう。
それはそれで当たり前のことだ。亡くなった人のことをずっと覚えているのは肉親だけで十分である。自分が死んでも、きっと肉親だけに覚えておいてもらいたいと思うだろう。さすがに肉親にまで忘れられると寂しいものを感じるだろうが、一番気になる人に覚えておいてもらえれば、それでいいのだ。
母にとって一番覚えておいてほしい人、それが私である。目を閉じる最後に立ち会ったのも私だったし、あの時、痛いほどに強く握った母の手を、私は当分忘れることができないはずだ。
美奈子は私にとって母の面影を残しているだけの女性ではない。何といっても母は、自分の肉親である。いくら気になるといっても愛情とは違う感情を持っていたのであって、美奈子に感じた新鮮な感情とは、また違うものだ。
「あなたにはマジックがあるのよ。私もそのマジックに掛かったのかしらね」
作品名:短編集31(過去作品) 作家名:森本晃次