短編集31(過去作品)
別のことを考えようと思っていると、不思議に浮かんでくるのが美香の顔だった。思い出さなくともいいのに、一度思い出してしまうと、目の前の彼女との比較をどうしてもしてしまい、それだけ似た雰囲気以外を探すことができないように思える。必死になって違いを探しているにもかかわらず、見つからないのだ。次第にハッキリと頭の中で美香の顔がよみがえってくるように思えたかと思うと、快感が邪魔をして、また忘却の彼方へと追いやられてしまったようにも思う。
――忌々しいな――
とそこまで考えただろうか?
快感に身を震わせながら、薄れていく意識を恨めしいと感じているのかも知れない。
だが、ハッキリと思い出しそうになった美香は、私の中で妖艶だった。目を瞑れば今まで見たこともないようなニヤリとした笑みを浮かべ、私を見下ろしている美香の顔を思い浮かべながら、何度も襲ってくる快感の波に身を委ねる。まるで、美香と抱き合っているような錯覚に陥ることも無理のないことに思え、ハッと気がついて、彼女に悪いという思いが私を襲う。
いや。それだけではない。美香に対して、浮かんでくるはずのない妖艶な思い、過去の人にしてしまったことを後悔する自分に苛立ちを感じながら、思い浮かべるという矛盾、しかも、それが別の女性と甘美な世界に浸っている時だなどと、考えている自分が、まるでどうかしてしまったかのようである。
目を開けると、ハッキリと浮かぶ彼女の顔、私を快感の絶頂に連れて行ってくれようと懸命な彼女がいとおしく、髪を手で撫でている自分を感じていたが、上目遣いでこちらを見る彼女に感じることができない妖艶さに、忌々しさが募っているようだった。
そこから先は至高の悦びだったのだろうか?
後から考えて、
――こんなものだったのかな?
と感じられた気がしたとしても仕方がない。その瞬間に何かが私の中で終わったような気がした。
それぞれの学校を卒業する時も、就職した時にも感じたことのないような思い、ハッキリと音を立てて、何かが終わったような感じである。
その時の女性と、その後、二度と会うことはなかった。
遭いたいと思い、何度も公園のベンチで座り続けていた。最初の頃は、そうでもなかったのだが、一週間、十日と経つたびに、思いは募っていく。
――もう会うことができないのだろう――
そう感じると居たたまれなくなって、足は公園へと向う。
いつも考えているのは、公園のベンチだ。すべてがそこから始まったのであって、公園のベンチに腰掛けることによって、初めて彼女の記憶がよみがえってくるのだ。学校にいる時も浮かんでくるのは公園のベンチに座っている私を遠くから見ている自分、実におかしな気持ちだ。
公園のベンチに座っている私に声を掛ける女性を思い浮かべることができることもあった。だが、その時に見た女性の顔、それは、声を掛けてきた彼女ではなく、顔は美香なのだ。
――あどけなさだけを感じたまま別れてしまった美香――
彼女に妖艶さはまったく感じられない。妖艶さを彼女になかなか感じることが最初できなかったことで、今でも公園のベンチまでは思い出せるが、そこから先は思い出せないのである。美香のあどけない表情から、至高の悦びを思い起こそうなどということが、できるはずもない。
なすがままだということが、これほど恍惚の快感を呼ぶものだとは、思いもしなかった。
身体のラインや、胸のふくらみなどの身体の特徴は覚えているような気がする。きっと、目隠しをして女性に触れても、違いが分かるのではないかと思えるほどなのにもかかわらず、顔や、その表情を思い出すことができない。声は覚えているのだ。肝心の顔や表情を思い出すことができないのでは、いくら他を覚えているといっても、無理に思い出そうとすればするほど霧に包まれるように感じるのも、無理のないことだ。
――私は目を瞑っていたわけではない――
もちろん、相手の表情を感じていたからこそ、なすがままにしている快感を感じることができるのだ。年上に甘えたいという気持ちが心の中で芽生えたとすれば、その時が最初だったに違いない。
あの日のことが幻のように感じられるようになった頃、私に新しい恋人ができた。
思い切り私に甘えてくる女性で、最初は男冥利に尽きる思いで付き合っていたのだが、どうも違うようだ。
甘えてくれる彼女に私は、
――中学時代のあのことを、きっと忘れさせてくれる――
と思った。それだけインパクトの強い女性の出現を望んだのは、このまま彼女の表情を思い出せない中途半端な状態でいくと、本当に他の女性を愛することができなくなるという危惧を感じたからだろう。あれだけ欲しかった恋人への思いが、少しずつ薄れていき、薄れるというよりも、自分自身の気持ちの中で落ち着いてきていることが分かってきていた。
中学時代の思い出は、忘れようと思うものではない。無理に忘れようとするなど、具の骨頂。大切に保管しておくものだ。だからこそ、それ以上に魅力的な女性の出現を、心待ちにしていたといっても、過言ではない。
だが、彼女にそれを望むのは酷だった。なぜなら、甘えられることを受け止められるほど、私は芯がしっかりとしていない。思春期という不安定で、足場の固まっていない時代、トラウマのように残ってしまった気持ちで、彼女に甘えの応えを返して上げられるほど、私の器は大きくない。
それも彼女が私の器を把握した上で甘えてくれるならいいのだが、
「あなたになら、何をいっても甘えさせてくれそうだから……」
というだけでは、さすがに納得できないところがある。それでも、
「あなたになら」
という言葉を私は信じた。男冥利に感じながら、甘えてくれる彼女を受け止めようとした。しかし、それもしばらくして、
――甘えたいのは、僕の方かも知れない――
と思うと、また思い出したのは、公園のベンチだったのだ。
名前も知らない。顔もハッキリとは思い出せない。だが、身体や声だけは、ハッキリと覚えている。何とも不思議な思いを感じながら、目を瞑った瞼の裏に浮かぶ公園のベンチで、一人私は座っている。
そこで私が一体何を考えているのか、しばらくは分からなかった。考えながら、
――きっと、大人にならないと分からないことかも知れない――
と感じていたように思う。
では、大人とはいつからのことをいうのだろう?
まわりが私のことを大人という目で見てくれた時からだろうか? いや、違うと思う。私自身が自分に対して、
――大人になったんだ――
と納得できなければ、大人になったとは言えない。それはまわりがどう考えようが関係ないことだろう。
作品名:短編集31(過去作品) 作家名:森本晃次