生まれ変わりの真実
前兆を、序曲のように感じたのは、その日の店内には、珍しくクラシックが流れていたからだ。
そういえば、今日の女の子は、大学で音楽を専攻していると言っていたのを思い出した。
「私はクラシックが好きで……」
という話をしていて、美由紀も小学生の頃から、クラシックが好きだった。クラシックを聴いていると、当時流行っていた音楽が、どうにも幼稚に聞こえてくるくらいで、何百年もの間、ずっと愛されてきた音楽、それがクラシックだと思うことで、クラシックに対する造詣も深くなっていったのだ。
「クラシックを聴いていると、眠くなる」
という話をよく聞く。美由紀もクラシックを聴いていると眠くなってくる方だが、美由紀にはそれがいいのだった。
「私も眠くなるんだけど、眠くなるっていうことは、それだけ、脳神経に刺激を与えているってことでしょう? リラックスしたい時など、最高なんじゃないかしら?」
と、答えたが、相手はどこまで納得したか分からないが、頭を何度か軽く下げ、頷いていた。
だが、今の言葉は、美由紀としては、相手に話すというよりも、自分に言い聞かせる感覚の方が強かった。クラシックはそれだけ、美由紀にとって、脳神経を刺激することを意識させるだけの効果を持った音楽だということであった。
「やっぱり、クラシックよね」
「えっ、何か言いました?」
「やっぱりクラシックはいいわね」
そう言っている間に、さっきまで兆候のあった頭痛が引いていくのを感じた。何か他のことを考えた方が頭痛を回避するにはいいのかも知れない。
クラシックを聴いていると、小学生時代を思い出す。学校では、休み時間の間、いつもクラシックが流れていた。音楽の先生の趣味なのか、それとも学校教育の一環なのかは分からないが、クラシックというと小学生の頃だった。
本当はあまり思い出したくない小学生の頃なのに、クラシックを聴いていると、嫌な思い出はあまり思い出すことはない。今もクラシックを聴きながら、気持ちよくなっていくのを感じるが、それでも小学生の頃の思い出がよみがえってきそうで、何とか、ギリギリのところで踏みとどまっているのを感じた。
ゆっくりと、心地よさが身体を包む。スナックの中が暖かくなってきた。夏が近い梅雨の終わりのこの時期は、蒸し暑さからか、どうしても冷房を利かせすぎる傾向にある。寒さが身体に沁みていたが、身体を包んだ心地よさは、暖かさを含んでいるようだった。
暖かさの中に、心地よさだけではなく、匂いも感じるようになっていた。
――何だろう? この匂いは――
香水の匂いには違いないのだが、香水や花の香りには疎い美由紀には、それが何の匂いなのか分からなかった。だが、きつすぎるわけでもなく、甘い香りの中に柑橘系を感じさせる香りは正反対の匂いを交互に感じさせるものであった。
花の香りは、誘惑の香りがあると聞いたことがあるが、淫靡な感じもしてくるのを感じた。美由紀が、最初に自分が女であることに気付いた時に感じた匂いに似ていた。
あれは、まだ小学生だった。早熟なわけではないと思っていたのに、急に身体の奥から、何かムズムズするものが湧き出してくるような気がした。それは何だったか思い出せないのだが、後になっても思い出せるということは、それだけ衝撃的な香りだったのだろう。
今は、その匂いを半分好きで、半分嫌いだ。それは、一緒に感じるものではなく、好きな時と嫌いな時があり、匂いを感じた時の比率からすれば、半々くらいの思いではないかと思っている。
淫靡な香りは、淫乱な自分を呼び起こす。先ほどの夢のような感覚を、今までに何度も経験していた。ただ、夢を見ている時は、毎回、
――初めての感覚だわ――
と、思っているのだ。
目が覚めてからは必ず、夢の中で匂いを感じたかどうか、思い出そうとしている自分がいるようだ。思い出せる思い出せないは別にして、意識としては、身体が覚えているのだった。
淫乱な自分が、一体いつから自分の中にいるのか、分からない。それを知りたいといつも思っているのだが、それが、本当に夢を見るようになってからのことなのかどうかが、一番気になるところであった。
淫乱な自分は、夢でしか見ることができない。現実世界の自分は、他の人に清楚であることを見せつけたいと思っているのだろう。そのわりには、あまりまわりを気にしているつもりはないのはなぜなのだろうか?
クラシックに、淫靡な香りが漂うスナック、しかも暖かさは湿気を帯びて、淫靡な匂いを醸し出している。
これだけの環境が揃うと、次第に意識が朦朧としてくるのを感じる。
――いけない――
と、思いながらも、睡魔に襲われてくる自分を感じるが、すでに、心地よさを跳ねのけるだけの気力が残っていなかった。美由紀はそのまま、意識が遠のいていくのを感じたが、遠のいた記憶がどこに向かっているのか分かっているつもりなのだが、不安感を拭い去ることはできない。
なぜなのかというと、終点が分からないからである。
底なし沼ではないことは分かっているが、終点がないという感覚もおかしい。
――覚めない夢はない――
ということは分かっていても、
――もし、このまま目が覚めなかったら?
という思いが漂っている。目が覚めて、まったく違う人間になっていたなんて発想、誰にでもあるのではないだろうか。
人間であればまだしも、人間以外の動物で、思考能力だけが人間であれば、どんな気持ちになるだろう?
いくら訴えても声になるわけではない。人間は、人間以外の動物に対しては、ペットならまだしも、それ以外は、本当に虫けら同然だ。ペットであっても、自分の思いのままにならなければ、簡単に捨ててしまう。そんな残酷な面を持っている人間に、何をされるかと想像しただけでも恐ろしい。
美由紀にとって、自分がこれからどうなっていくのか、少なくとも夢の中での自分がどうなのかという目先のことだけを考えるだけで精一杯である。
「美由紀さん、美由紀さん」
遠くの方で、美由紀を呼ぶ声が聞こえる。もはや、返事などできるはずもないが、何とか答えようとしている自分を健気に思いながら、心地よさに身を委ねながら堕ちていく自分に、美由紀は快感という本能を感じていた。
――本当は、本能は嫌いではないのに――
そう思っていると、本能から逃げられない自分を、可哀そうに思うもう一人の自分がいて、本能は、もう一人の自分を決して支配することができないことを、堕ちていく美由紀は感じていたのだ。
クラシックが、そろそろ終わろうとしている。次の曲を美由紀は聴くことはできないだろう。すでに、別世界の扉は開かれているからだった……。
夢の中では、やはり、香水の匂いが漂っていた。
――どこかで嗅いだような匂いだ――
それは、懐かしくもあり、思い出すと、身体の奥から滲み出てくるものがあるのを感じたが、淫靡な感じは不思議となかった。