生まれ変わりの真実
そう思って、ずっと部屋に引きこもっていたが、悪い時には悪い方にしか考えないもので、悪循環から、体調を崩すこともあった。なるべく動かないことは確かに賢明なのだが、気分転換は必要である。そういう意味で、どこか気に入ったお店を見つけようと思っていたところに、家の近くのスナックに思い切って立ち寄ったことから、そのまま常連になったのだ。
その店は、昼間は喫茶店もしている。昼間も常連で、休みの日や、夜勤明けで、その日に勤務のない時など、仕事帰りに立ち寄り、モーニングサービスを食べるのが好きだった。
モーニングサービスに出てくる、スクランブルエッグが好きだった。自分も作ってみたが、あの味付けがどうしても出せない。作り方を聞いてみて、やってみたのだが、結果は一緒だった。
「やっぱり、ここで食べるのが一番ですね」
「そう言ってくださってありがとうございます。嬉しいですよ」
朝は、マスターとアルバイトの女の子が二人でやっている。夜はスナックになるくらいなので、さほど店は大きくない。こじんまりとした雰囲気が、常連に親しまれるのか、朝もいつもメンバーであった。
部屋を出る頃には、頭の中から半分、迫丸のことは消えていた。普段であれば、嫌な夢を見てスナックに出かけようと思う時、嫌な夢の印象はなくなっているのだが、さすがに本人と同じで、夢の中の迫丸もしつこかった。
だが、あれだけ印象深かった迫丸が、半分とはいえ、消えているというのも、さすが、夢と現実の違いを感じさせた。すっかり夢からは覚めていたのだが、夢から覚める途中でも、
――あの男のことを見た夢は、当分記憶の中から褪せることはないわね――
と思ったのだ。
それでも半分は消えていた。ただ、記憶の中でどの部分が消えて、どの部分が残っているのかが、ハッキリしない。ハッキリとしないくせに、どうして半分だと分かるのか、不思議な気がしたが、自分の中で、少しでも意識が残っていれば、半分だと思うのか、それとも、逆に、消えていく記憶があるのを感じることで、半分だと感じるのか、どちらにしても消えゆく記憶は流動的で、意識の中の半分も、かなり幅の広い意識の中にあるものではないかと思うようになっていた。
夜のスナックの時間は、マスターはたまにしか出てこない。それよりも、奥さんであるママさんが、夜のお店を切り盛りしている。女の子も三人雇っていて、日に一人の時と、二人の時がいるようだ。週末の金曜日、土曜日は女の子二人体制で、あとは、いつもママと女の子一人のパターンだった。
開店は八時頃だが、店に客が集まってくるのは、大体十時頃くらいになるだろうか。美由紀はその日は、八時半頃に店に赴いた。
「お帰りなさい」
美由紀を見た途端、その日の女の子が、美由紀に声を掛けた。美由紀に対しては、
「いらっしゃいませ」
ではなく、
「お帰りなさい」
なのだ。
それは、美由紀が言い出したことで、
「このアットホームなところが好きなのよね」
と、ボソッと言ったことが、いつの間にか、このお店が「第二の家」になってしまったようで、お帰りなさいという言葉が一番似合っているのだ。言われた美由紀も一番しっくりくる言われ方なので、満面の笑みを浮かべると、誰もが美由紀に対して、
「お帰りなさい」
というようになった。それは、常連客からも例外ではなかったのだ。
挨拶一つで、その場の雰囲気に一気に馴染んでしまうことがある。まさしく、このスナックは美由紀の望む環境が揃っていた。嫌なことがあっても、忘れられる場所だし、いいことがあれば、いいイメージがずっと保てるような雰囲気を与えてくれる。自分にその日話題がなく、何も話すことはなくても、他の人の話を聞いているだけで、勝手にいろいろ想像ができる自分が、この店の中にある暖かさを感じることができるからだと思っていたのだ。
店に入って、いつもの席に座った。美由紀のいつもの席は、カウンターの一番奥。
「誰もそこには座らないから、本当に美由紀ちゃん専用なのよ」
とママさんが言っていた。しかし、それは美由紀に限ったことではなく、常連の席は決まっていたのだ。どんなに時間帯が違っていても、一人の常連さんの座る席には誰も座らない。つまり、時間を超越して、完全に指定席が決まっているのだ。
「こんな不思議なこともあるのよね」
と、ママさんが話していたが、まさしくその通りだと言わんばかりに、美由紀も頭を軽く何度も下げて頷いていた。
いつもの席に座り、いつものように、店内を見渡す。この席が好きな理由は、ゆっくり佇みながら、店内を一望できるところだ。見渡して、そこに自分の今までの記憶と何ら変わりのないという当然のことに、納得することが、美由紀の満足感を充足させるものだった。
「おや?」
その日、いつものように見た光景が、いつもと違っていることに違和感を感じた。何が違っているのか、最初は気付かなかったが、よく見ると、いつもよりも、狭く景色が感じられたのだ。
そして、じっと見ているうちに、さらに狭くなっていくのを感じ、目の錯覚かと思い、目を瞑り、少しこすってみてから、再度見渡した。すると、今度は、普段と変わらない景色が広がっていたのだが、じっと見ていると、やはり、狭まってくるのを感じるのだった。
だが、一度瞬きをすると、また、元の広さに戻っているのを感じた。
――こんな錯覚、初めてだわ――
今までに似たような錯覚を感じたことがあったような気がしたが、それがいつ、どこでだったのかなどの記憶はまったくない。記憶違いではないと思うが、記憶が錯綜しているのは確かなようで、ただ、今下手に記憶を呼び起こそうとすると、思い出したくもないことまで思い出しかねないと思い、気になっている気持ちを残しながら、意識を別に置いてみた。
思い出したくない記憶というのは、他でもない、迫丸のことだった。完全に覚めてしまった夢は、余韻を残したまま、記憶の奥に封印を試みたが、どうにも封印はできそうにもなかった。
封印ができないのであれば、それでもいい。しかし、無理に思い出すこともないので、何とか記憶の隅に置いておいて、他の楽しいことを考えた方がいいという思いから、スナックにやってきたというのが、その日の来店の一番の理由だった。
店内を見渡していた時間がどれほどだったのか分からないが、自分では結構長い時間だったのではないかと思ったが、実際にはあっという間だったのかも知れない。
そうでなければ、
「どうしたの?」
と、女の子が声を掛けてくれてもいいかも知れないからだ。いつもの美由紀は物思いに耽ることもあるが、座っていきなり、固まってしまうようなことはないので、心配してくれるかも知れないと思ったからだ。
ただ、その時の美由紀は少し頭痛を感じた。
――どこかで感じたような頭痛――
頭の重たさが、考えることを妨げる。考えれば考えるほど、襲ってくる頭痛に、固まってしまった感覚があったのも仕方のないことだった。
――店内が、狭く感じたり、次第に狭まっていくのを感じたのは、頭痛への序曲のようなものだったのかも知れないわ――