生まれ変わりの真実
「ひょっとすると、自殺菌は誰の中にもいて、自殺しようと思う気持ち、そして、それを止めようとする気持ちの均衡が取れていることで、自殺などという発想が生まれてこないのではないか。誰にでも自殺という危険が背中合わせにあり。それをしないのは、理性としての菌がいるからなのかも知れない」
突飛な発想であることは分かっているが、ドラマを見て自分で感じたこと、そして、定期的にドラマを思い出すことがあったり、時々自殺したいという気持ちになったりすることがある。だが、自殺したいと思った気持ちは、すぐに、何事もなかったかのように消え去る。考えたことすら、夢であったかのように、現実的な思いとして残っていないのだった。
美由紀は、自分がレズビアンであることを思い出した。その時に、一緒に感じたのが、ドラマで見た、医者と最初の患者の関係だった。
患者は、医者にとってどんな関係だったのか曖昧だったが。医者にとっては、彼女のことをいとおしいと思い、顔を変えなければいけない自分にジレンマを感じていた。そこで起こした医療ミス。他の人が見れば、どう感じるだろう。
美由紀は、この医者の気持ちも分かるのだ。自分が同じ目に合えば許せないのだろうがどうしても、この医者を憎むことはできなかった。実に身勝手な考えである。
レズビアンというのは、この医者のようなものではないかと思うようになった。自分の中でどうしようもない性格を抱えていることを普段から自覚していて、それを表に出さないようにしようとしている。それが「羞恥」の気持ちなのだ。だが、どうしようもなくなって、本性を表すと、そこにはすでに「羞恥」は消えている。それが美由紀の中での葛藤となって自らを苦しめているのだ。
どちらの気持ちも分かるということは、却って、どちらかに気持ちを集中させないと、意識が分散してしまって、どちらも理解できなくなりそうに思う。自分の両の手の平で、片方が熱く、片方が冷たかった場合に手を握り合わせた時、冷たい方を感じるか、熱い方を感じるかというと、たぶん、意識が分散してしまって、どちらも感じることができないだろう。よほどどちらかに集中しないといけないと思っても、なかなか難しい。何しろ、どちらも自分の手だからである。
美由紀がレズビアンに溺れている時、普段は感じるはずのお互いの気持ちを急に感じることができなくなる時がある。そんな時は自分が我に返っている時だということを今までは分からなかった。それが分かるようになったのは、この医者のイメージが、いまだに自分の中に残っていることを悟ってからのことだっただろう。
この医者は、自分の願望と、仕事との葛藤から、自分の願望を捨てきれず、自分に負けてしまった。誰もがそう思うかも知れない。
だが、美由紀は同情的な目を拭うことはできない。その気持ちがある限り、自分にも同じことが起こり得る。しかも、レズビアンというのが、欲望の固まりだと思っていることで、自分の性癖に対して、自分自身の嫌悪感を拭い去ることはできないでいた。その反面、本能には逆らえない、そして、本能に身を任せることを自分で納得している。そんな矛盾にも似た考えが、自分の中で葛藤していたのだ。
美由紀に対して、以前レズビアンを感じていた女性がいて、美由紀もレズビアンでしか分からない感覚を感じ取ることで、相手とアイコンタクトを取っていたことがあったが、初めて話をした時、話が盛り上がったのを覚えている。
お互いに、求めているものが似ていたのだ。
それまでに相手をしたレズビアンの相手に、求めているものを感じさせることはなかった。ただ、欲望に溺れるだけでよかった。その時さえよければそれでよかったのだ。
だが、その女性には、レズビアンに対して、それなりの考えがあったようだ。ただ溺れるだけではなく、自分たちの行動が、いかにまわりに影響があるかということも考えながら、まわりを見ていた。
「それが羞恥に繋がるのよ。そして、私たちだけの世界を確立しているって、実感できたりもするでしょう?」
人が見て、悪い方に感じるようなことでも、なるべくいい方に結びつけようと考える。それが彼女のいいところであった。そして、その考えが、美由紀の目からウロコを落とさせたのだ。
手術を受けたわけでもないのに、手術を受けた感覚がある。しかも、顔に包帯がグルグル巻きになっている感覚があるということは、まるで整形手術を受けた後のようではないか。
美由紀は自分の顔を思い出してみた。鏡を見ない限り、自分の顔を確認することなどできないが、普段からあまり鏡を見ない美由紀は、思い出そうとすると、自分の顔を思い出すことができないことが往々にしてあった。
その時も思い出せなかった。
まわりがどんなに明るくても、自分の顔だけが黒くぼやけている。まるでのっぺらぼうが現れるのではないかと思うほどのシチュエーションに、口元が歪んでいるのを感じる。美由紀には相手の顔が分からない時、相手は必ず不気味に笑っている姿を思い起こしてしまうことを自覚しているのだった。
白い包帯の中の顔が、本当に自分の知っている自分の顔なのかどうか、疑う気持ちになっていた。自分の顔であることに間違いはないのだろうが、自分の顔ではないとするならば、自分の知っている顔なのか、知らない顔なのか、どちらなのだろうかと考えていたのだ。
知らない顔である方が、いくらか気が楽である。もしそれが知っている人の顔であるならば、きっと背筋が凍るほど、不気味な気持ちになることだろう。
「この人は、一体どれほど私と関係があるというのか」
と考えてしまうからだ。
美由紀は、もし、その顔が知っている人なら、誰なのかという想像が、まったくつかなかったからである。
美由紀独自の考え方である「夢の共有」を思い出した。もし、誰かが自分と同じ夢を見ているのだとすれば、相手も美由紀の顔を見ているはずだ。そして、本当に美由紀の普段の顔を見ているのかというと疑問である。美由紀も相手の顔を最初から自信を持って見ているわけではないからだ。
相手の顔を確認できないことで、相手が何を考えているか、分かる気がした。もし、相手の顔を確認できるとすると、どうしても相手の顔を見てしまい、表情で相手が何を考えているか、想像してしまうのだ。
相手は、なるべく、考えていることを悟られないようにするだろう。それが人間の本能であり、本当に知ってほしいことであれば、言葉にして説明するはずだからである。それをしないということは、美由紀に対して心を開いていないということであり、顔を見た瞬間に、何を考えているか、分からない道を選ぶことになるのだ。
一度言葉に出して、会話をすれば、お互いに気持ちが通じ合ったと感じ、次からは、表情でも相手に説得力を与えることになるだろう。その思いがコミュニケーションというもので、気心が知れれば、暗黙の了解という考えが、二人の間に発生するのである。
ただ、美由紀が入院しているのは、夢でも何でもなく、事実のようだ。皆、詳しいことは話してくれないが、気になるのは、やはり親がそこにいないことだ。