生まれ変わりの真実
――もう二度と恐ろしい顔を思い出すことなどない――
確証もないのに、どこからそんな自信が生まれてくるのか、自分でも分からなかった。ただ、さっき見たはずの恐ろしい顔を、もうその時点で思い出せなかったからである。恐怖に歪んだ顔を、美由紀はその時に思い浮かべていたに違いない。
美由紀は、病院のベッドであおむけになり、じっと考えていた。
いろいろな思い出が走馬灯のように駆け巡っているのが分かる。天井の格子状になった模様を見ていると、次第にその時々が自分にとって何だったのかを考えさせられた。
思い出に浸りながら、頭では、自殺菌のことが、なぜか頭に浮かんできた。
――自殺したいなんて考えたことなどないのに――
それは今でも同じことである。
自殺を考えたこともない人間が、なぜ自殺菌がそんなに気になるというのか? 確かに興味深い話ではあるが、あまり深く考えたくないことでもあった。一時期、美由紀のまわりに自殺者が多いこともあったし、実際に自殺と思しきものを見たこともあった。
電車の中に乗ると、特にそれを感じる。
「人身事故が発生し、列車が運転を見合わせております」
などというアナウンスを何度聞いたことか、しかも何日も続くのだ。
そのことが自殺の連鎖反応を感じさせ、自殺菌という発想を思い浮かばせることになるのだ。
入院している病院で、ベッドで寝ている時に、時々、強烈な臭いを感じることがある。それが麻酔の臭いだと、美由紀はしばらく知らなかった。
身体に注射する麻酔ではなく、クロロフォルムのように綿に沁みこませて嗅がせるものが臭ってくるのだ。
嗅いだ瞬間に、意識が朦朧としてきたが、すぐに気を取り直すと、気を失うほどのものではなかった。直接嗅がされたものであるなら、気を失っても仕方がないが、臭いを感じるという程度では、そこまでには至らない。
美由紀は、以前にその臭いを強烈に嗅がされた記憶がある。相手は誰か分からないが、気が付けば、身体を縛られて、寝かされていた。
まるでさっきの夢のようである。
夢を見るのは、潜在意識が見せるものであるのだから、臭いを通じて思い出した記憶の中で、よみがえったものだったのだ。
ただ、実際にそんな恐怖の体験をしたにも関わらず、さほど記憶の中で恐ろしいという記憶ではなかった。
確かに蹂躙されて、何をされたのかを思えば、恐怖の記憶なのだが、その一方で、甘い記憶としての意識があるのだ。
何をされたのか、思い出すことはできなくもないが、思い出したくはなかった。それは恐怖が先に立つからではなく、自分の性癖をさらに思い知らされることを嫌っての意識だった。
夢を見ることで現実の記憶を思い出し。頭が錯乱してしまった。
目が覚めるまでに夢と現実を行ったり来たりしていたという思いは、ここにあったのだ。目が覚めてからも、まだ夢の中にいるような意識は今までにもあったが、夢の続きなのか現実なのかがハッキリしないというのは、今までにあまり感じたことのない意識だったのだ。
過去の現実の記憶、今の夢で見た意識、この二つが微妙に入り食っている。記憶と意識はそれぞれ交錯し、夢から覚める過程で、何かを感じさせて、消えていく。感じたものが、それぞれの場面で同じであれば、目が覚めても覚えていることがあるのだろうが、ほとんどの場合は違っているのか、その都度感じても次の瞬間には、消えていくのである。
麻酔の臭いを嗅ぐと、ケガをした瞬間を思い出す。その時は、石の臭いを感じたつもりだった。あるいは、雨が降る前のアスファルトの上を歩いている時に感じる。石のような嫌な臭いである。急に鼻の通りがよくなったかと思うと、嫌な予感が一瞬頭を巡る、次の瞬間には、身体全体に痛みを感じ、ケガをしているのを感じる。その間、息ができないほどの痛みが襲ってくるが、その時に感じた臭いが、麻酔の臭いを想像させるというのも、何かの偶然であろうか。
美由紀は小学生の頃、よくケガをしたものだ。ほとんどが自分の不注意から起こったことであるが、痛みはいつも同じものであった。ケガの大きさの如何に関わらず、美由紀にとって思い出す記憶は、いつも同じ「臭い」だったのだ。
病院に行って同じ臭いを嗅ぐことになるが、病院が嫌いになったのは、それからだった。治療の痛みよりも臭いの方が恐ろしい。この意識は今までに誰にも話したことはなかった。
夢とも現実ともつかない意識の中で、窓の外を意識していると、真っ暗な中に赤い色が見えてきた。鮮明な色ではなく、黒味の帯びた赤であった。しかし、赤い色が支配している範囲は、暗さを感じさせる赤い色であるにも関わらず、自分が感じている色は、思ったよりも広い範囲に感じられた。
――それだけ表が暗いということかしら?
「カンカンカン」
またしても響いてくる遮断機が下りる時の警報機の音、すると赤い色は、踏切の明かりであろうか? そのわりには点滅していなかったのが、不思議だった。
警報機の音が少し小さくなったが、遮断機が下りてきた証拠だろう。しばらくすると列車が通過する音が聞こえ、またすぐに静寂が戻ってくる。
美由紀は、起きているうちに同じ感覚を何度味わっただろうか。その日はベッドの上で、いつもであれば、いろいろと考えているはずなのに、何も考えることができずに、意識は表の遮断機と警報機に集中していた。電車の通過がいつもよりも頻繁に思えたのは、それだけ普段いろいろ考えている頭が空っぽになると、空白を作らないようにと考えながら、その分、時間が短縮されて感じるのかも知れない。
美由紀が、夢か現実か分からない感覚に陥ったのは、それだけ意識は眠たいと思っているからで、眠たいのに眠れない状態は気持ち悪いもので、しかも睡魔は断続的に襲ってきて、その波に乗って眠れれば、その後は熟睡できるに違いないと思えるだけに、波に乗り遅れて眠れない状態になっている自分が口惜しかった。
ベッドで寝ていても、まだ腰が痛くなる年でもないのに、その日は、腰に違和感があった。それも、意識が戻った瞬間から、ずっと気になっていたことだった。
ひょっとして、交通事故に遭って、急遽搬送され、すぐにベッドに寝かされたことで、昨日今日のことだと思っていたが、実際には意識を失っていた期間が、かなり長かったのかも知れない。
そういえば、看護婦の様子も少しおかしかった。何かを隠しているように思えたが、それだけではなく、少し安堵な雰囲気があったからだ。何かを隠しているのに安堵な雰囲気が漂っているというのは、少しアンバランスなイメージだが、美由紀はそのアンバランスさを最初から意識していて、不思議に感じていたのだ。
「もし、このまま目が覚めなかったら」
などと思っていたのかも知れない。
病院に運ばれた時、錯乱状態で、鎮静剤に睡眠薬を混ぜて、注射か何かをしたのかも知れない。そう思うと、納得のいかない場面もあるが、看護婦さんのアンバランスな雰囲気も分かるというものだった。
美由紀にとって、入院は初めてではなかったが、子供の頃と違って、病院も綺麗になった。設備も充実しているのだろう。そのわりに孤独感を感じるのが、美由紀の中で寂しさがあった。