生まれ変わりの真実
交差点で出会ってから、沙織の部屋に招かれるまでの時間があっという間だったような気がしていたのに、沙織の部屋に入ってからは、なかなか時間が進んでくれなかった。部屋の中で美由紀が見たものと、感じたものが、少し違っているような気がした。普通であれば、視界を通して見たモノが、頭に回って、感じることになるはずなので、そこに何ら変わる要素も疑いも存在しないはずである。それなのに何の変哲もない普通の部屋なのに、どこかが違っているように感じるという話は聞いたことがあるが、考えてみれば、それは人間の心理からすれば、矛盾していることではないのだろうか。
交差点から、美由紀の部屋までがあっという間だったという感覚も、見たことと感じたことのギャップが大きい、部屋の中の出来事を感じながら思い返すために、あっという間だったように思うのかも知れない。
美由紀が、以前にも同じように、見たものと感じたもののギャップで、時間の感覚がずれたような気がしたことがあったような気がした。
あれは、高校受験の日のことではなかった。受験会場に向かうバスの中でのことだった。
その年は厳冬だった。雪が毎日のように降り、何日も降り積もった雪が解けない日も何度かあった。朝出かけ間際に、生姜湯で身体を温めて出かけたはずなのに、バス停に着く頃には、すでに身体が冷たくなっていた。
それなのに、その日の天気はとてもよく、雲一つない状態の中で、雪だけが、解けずに残っていた。日に照らされて、雪の先から溶け出した水が流れ落ちている。明るさが、却って冷たさを感じさせるような光景だった。
手袋を嵌めて、それでも手を合わせてこすっているのは、それだけ体感が寒いということであり、天気がいいのも、さらに追い打ちを掛けているのかも知れない。
バスの中は、人でいっぱいだった。いつも学校まで行く時に使う同じバスで、駅まで向かうのだが、その日は受験ということもあり、少し家を早めに出たのだ。それでも天気の良さは、雪の白さにさらなる明るさをもたらし、早い時間であることを感じさせないほどだった。
幸か不幸か、その時は同じバスに、友達はいなかった。友達と言っても、バスの中で話をするわけではなく、挨拶程度だったのだが、それでもいなかったのは、幸運だったと言えるだろう。
バスは比較的空いていた。後ろの方に行けば、座ることもできる。美由紀は、ちょうど真ん中あたりの、入り口近くの二人掛けの席に腰かけた。窓際に座り、人が来てもいいように、鞄を膝の上に置いて、窓の外を見ていた。
眩しさに、少し意識が朦朧としていたのを感じながら、
――まずいかな?
と、あまり表の雪を見ないように気を付けていたが、どうしても、明るい方に目が行ってしまうのは本能のようなものなのか、その日も、視線が光に吸い寄せられるように表を漠然と見ていた。
漠然と見ていた時、足元に湿った暖かいものが触れるのを感じた。
――男の手?
それはまさしく男の手に見えた。隣に座った男が美由紀の腿のあたりを撫でているのだ。
――どうして、こんな――
と、その日が受験であることも、そして、バスの中であることも忘れてしまうほど、パニックになっていた。だが、すぐに冷静になり、
――これは夢なんだわ――
と感じた。
すると、撫でていた手の感触がなくなってきた。だが、目の前に見えているのは、やはり男が腿を触っている映像だ。
――まるで映画を見ているようだわ――
と思った。
その時、自分が見ているものが、感じている感覚と違っていることに気が付き、それが矛盾の中にあるものだということを感じていたのだ。
――どうして、私って、こんなに冷静になれるのかしら?
と思ったほどだ。
最初は、自分が何をしようとしてバスに乗っているのか、またバスの中であるということさえ分からなくなっていたはずなのに、気が付けば、あっという間に冷静になっているのだ。それも時間的な矛盾の一つではないだろうか。
冷静になってみると、男は隣の席から消えていた。まるで何もなかったかのような時間が美由紀に残った。男に触られた感触も、男がいなくなったと思った瞬間。思い出せないものとなってしまった。
――私って、何て淫らな――
淫乱などという言葉を感じ始めたのは、その時からだったのかも知れない。
男に触られたという感触は、頭の中に、「願望」として残ったのかも知れない。願望は、淫乱に対してのもので、自分が求めているものが、淫乱な自分への確証だったのではないかとその時に感じたが、中学生の女の子が本当にそこまで感じていたのかというと、今思い出すと、疑問であった。
――そんな女の子を、男性はどう思うのかしら?
羞恥の感覚が、身体を襲う。その日が受験の日だということを忘れさせるほどの震えは、バスの中にいる間、消えなかった。
だが、バスを降りると同時に、羞恥の気持ちは消えていた。そして、受験日だということに気付き、我に返ると、次第に、バスの中での出来事が、かなり昔のこととして記憶に封印されるのに気付いた。
「誰にも見られなかったのが、よかったんだわ」
人に見られていたら、見られたという消えない事実を、ずっと抱えていかなければいけない。
その日の試験は、却って集中できた。
――何もなかったんだわ――
という思いが、試験でも緊張感を解くのに役立った。
――ひょっとして、緊張感を解くために、何か見えない力が働いて、私に妄想を抱かせたのかしら?
とも感じた。
「こんな日くらいは、許されることだわ」
と自分を納得させるに十分な日でもあったからだ。
美由紀は、その時の男のことを、ずっと忘れていた。それは受験から逃げたいという気持ちだったのか、受験の苦しさを忘れたい一心で見た妄想だったのか定かではないが、結果的には、その夢のおかげで緊張感がほぐれ、受験をうまく乗り越えることができたのも事実だった。
ただ、その男の顔をハッキリと見たわけではなかった。見るのが怖かったというよりも、見ようと思ったその時に、すでに男が消えていたという感覚だったのだ。触られたという感覚だけを残して、隣に本当にいたのかどうかも定かではない。やはり妄想だったのだろうか。
そのバスに次の日も乗ってみた。その日は。あまり人は多くなく、どこにでも座っていいくらいだったが。美由紀はわざと、昨日と同じ場所に座った。
「あの人はどこから乗って来て、どこで降りたのかしら?」
半分は妄想だと思いながらも、その人のことを知りたくて仕方がなかった。出会ったとして、その後どうしようかなどということは何も考えていない。ただ、どんな人なのか確かめたかっただけだった。
バスに乗っていると、睡魔が襲ってきた。前の日には感じなかったことだが、
――これが緊張感の違いというものなのかしら?
と思った。
すると、美由紀の腿に昨日と同じ感触が伝わってきた。
「来た」
美由紀は身体を固くする。それは、恐怖に固くなっているわけではなく、どんな人なのかを確認できるのではないかという緊張感からであった。
美由紀は今日はすぐに顔を上げたが、そこにいる人を見て、愕然としてしまった。そこにいたのは、何と、自分だったのだ。