生まれ変わりの真実
その時、美由紀の感覚のバランスは、間違いなく崩れたのだ。
自分が原因で崩してしまったのなら仕方がないが、外からの影響、しかも、それが、
「父親の威厳」
という、自分ではどうにもならない、昔からある悪しき伝統のようなものに左右されるのは、ショックが大きかった。
それだけに、美由紀の恨みも尋常ではなかった。もちろん、一緒に暮らしているのだから、友達の家から強制送還されたことは、氷山の一角にすぎない。それでも一番大きな氷山で、恨みのほとんどが、その出来事に由来していることは間違いない。
ただ、他の人を恨む感覚とは、違っていた。実際に、考えてみないと思い起すことができなかった。無意識に思い出さないようにしているのか、この感覚を誰かに知られたくないからなのか、美由紀は、感覚のバランスが崩れてしまったまま、まだ治っていないことを自覚していた。
鈴音が晴子を恨んでいる感覚は、
「感覚のバランスが崩れている」
という見方で見ると、確かに崩れていた。
美由紀は、父親を恨んでいることを再確認できたことにより、誰かが誰かを恨んでいることが、見ていて分かるようになったのだ。
感覚のバランスの崩れを感じるようになったからで、そのおかげで、晴子を思い出してしまったのだ。
思い出したくない人間を思い出したというべきなのか。ただ、晴子に対して美由紀は、直接的な恨みを持っているわけではなかった。
晴子に対しての恨みは、鈴音の中で、表に出ないように努力はしているようだった。努力をしてはいるが、
「頭隠して尻隠さず」
見る人が見れば、丸見え状態であった。
美由紀が晴子に対して持っているイメージは、恨みではない。感覚のバランスを崩されたことで、精神的に少し不安定になったことはあったが、それも昔のこと。恨みを抱くようなことはない。
鈴音が恨む気持ちも分からなくはないが、冷静に考えると、男女関係のことは、当事者の問題なので、ハッキリと分からないまでも、付き合っている男性を取られたのだ。
洋三があれからどうなったのかを、鈴音が教えてくれた。
「あの人は、あっけなくあの女に捨てられたのよ。今では以前のあの人ではなくなってしまって、本当の腑抜けのようになってしまったの。それもこれもあの女の仕業なんだけど、しいて言えば、まさかあの人がここまで落ちぶれてしまうなんて思ってもいなかったので、ある意味、頼りがいのない人だったということよね。そのことを教えてもらえただけでも、あの女に感謝しなければいけないのかも知れないわ」
好きだった人の、見たくなかった姿を見せられ、鈴音は、その時のことを思い出すと、本当に雰囲気が豹変した。それまで泣きわめいていた人が、急に我に返って、冷静に話し始めた感覚だ。それを思うと、
「人間、何が幸いするか、また災いするか、分かったものではないわね」
と、鈴音には聞こえないほどの小さな声で呟いたのだった。
美由紀は、鈴音と洋三を見ていると、自分のことを思い出さないわけには行かなかった。離婚したのも、
「まさか、晴子が影響しているのではないか?」
などという妄想に取りつかれそうになった。
「いくら何でも、ここまでの偶然はありえないわ」
と、思いながらも、
「もしかして」
と、同じところを何度も繰り返して考えていた。もちろん、結論など出るはずもない。あくまでもただの発想。それ以上でも、それ以下でもないのだった。
考えが堂々巡りを繰り返すのは、今に始まったことではない。以前から、一つのことを考え始めると、時間の感覚がなくなってしまうほど、考え込んでしまう。
考え込んでしまうと、妄想はとどまるところを知らず、果てしなく広がっていくだろう。その広がりを抑えるには、堂々巡りをさせるしかないのではないかというのが、美由紀の中で堂々巡りを繰り返すことの「真実」だった。
真実が決していいことだとは限らない。
真実を見つめることは大切だが、真実ではない真実もあるのではないだろうか。
誰もが自分の中での真実を持っている。それは他人が犯すことのできないものだ。だが、それだけに、人の真実ではないことも、他人にとって真実であれば、重ねてみることのできないものではないだろうか。人と共有できる真実などありえないというのが、美由紀の考えだったのだ。
――似ているようでも、絶対にどこかが違う。それこそが真実――
そう思っているのだった。
美由紀の前に迫丸が現れたのは、晴子のことを思い出してから、一月ほどしてのことだった。迫丸の夢、そして晴子の夢と、立て続けに見たような気がしていたが、実際には、その間に数日が経っていた。しかし、それから一か月、すでに迫丸のことはおろか、晴子の夢のことも、そろそろ過去だと、自分で納得し始めた頃だったのだ。
「何で今さら」
完全に忘れ去ってしまってであれば、また感覚は違ったことだろう。中途半端に記憶に残っているだけに、現れた瞬間に、胸の鼓動は本当に自分のものなのかと疑いたくなるほどであった。過呼吸で、息苦しさを感じるほどで、立っているのが、やっとの気がしていたのだ。
またしても偶然なのか、それとも、ここまでのことも偶然ではなかったということなのか、美由紀には、何か今の自分が、一つの方向に向かって進んでいることを悟った気がし――進んでいる方角は、今まで進んできた方角と違うところを目指している――
そうは思ったが、見えているものが変わった気はしないのだ。きっと、気付かぬうちに違う道に迷い込み、さらに迷ったため、元の道に戻ってきたのではないかと思えるくらいだった。
出会ったというわけではなく、見かけただけだったので、それが本当に迫丸だったのかと言われると、自信がない。ただ、その時の迫丸の顔は、夢の中に現れた迫丸だった。もっとも、夢の中の男性も、本当に迫丸だったかどうか分からない。夢の中で、美由紀が勝手に想像しただけだ。
夢で見た男性が目の前に現れたのも事実だ。これは疑いようがない。
だが、これも考えようでいくらでも説明はつく。
「夢で見た男性に少し似ていたからということで、夢の中に出てきた男性のイメージを後から変えてしまった」
という考え方、また、同じような考えであるが、
「目の前に現れた男を、迫丸だと思ってしまったことで、夢の中の男性を迫丸に仕立て上げることで、迫丸だと思い込んでしまったことを正当化させようとする、辻褄合わせのようなものだ」
という考え方である。
「本当に私って、昔から、あまり余計なことを考えないタイプだったのかしら?」
不眠症の人の話を聞いて、
「眠れない夢を見ていた」
という笑い話のような話を聞いたことがあるが、余計なことを考えないようにしようという思いを抱いていただけで、実際には、無意識に考え事をいつもしていたのかも知れない。それも自分の考え方が自分にとって、理に適ったものであることで、余計なことを考えているという気がしないだけなのかも知れない。
考えているからこそ、幻だって見るのかも知れないと思うのだが、そういえば、子供の頃から、変わったことばかり、まわりに起こっていたような気がした。