短編集30(過去作品)
大往生だったらしいが、年齢的に考えてもそうだろう。初めて遭遇した「身近な死」、それがおばあちゃんだったのだ。
当然といえば当然である。年老いた者が先に逝くのは当たり前だ。そういう意味では悲しくはない。その夜、急遽通夜に出かけたが、ほとんど皆酒を呑みながら談笑していた。
――これが通夜の雰囲気なんだ――
心の底では悲しんでいる人もいるだろうが、
「こうやって皆で酒を呑んで、故人を送り出してあげるんだからね」
中には中学生くらいの子供もいて、彼らに説明していた。すぐに帰っていったが、きっと雰囲気に馴染むことなく帰っていったことだろう。
信二自身も誰と何を話していいものか分からず戸惑っていた。じっと遺影のおばあちゃんを見ていたが、どこかで見たことのある表情のように思えてならない。
――そうだ、公園で初老の紳士を見ていた時だ――
そのことに気付くまで、どれくらいの時間が経っただろうか。結構掛かったように思える。おばあちゃんはあまり表情が変わる方ではなかったので、すぐに気付きそうなものだったが、なぜ気付かなかったのだろう。それだけ子供時代というのが、昔のことになってしまったということではないか。
子供の頃というのは、実に一日が長かった。小学生時代など、ずっと続くのではないかと思ったほどだが、今となって考えれば、あっという間だったように思う。それだけハッキリとした時間の感覚のない時期だったのだ。
おばあちゃんと過ごした時期、両親の離婚、そして引越しと目まぐるしかったにもかかわらず、今から思えばすぐだった。
それもおばあちゃんから聞かされた怖い話が頭に残っているからだろう。その話をしている時のおばあちゃんの顔は本当に怖かった。いつも優しいおばあちゃんが初めて怖い話をしたのだ。
――どうしてあの話をしたのだろう?
なるべく信二の気を遣って、怖い話をすることなどなかったのに、あの時だけは不思議な雰囲気が漂っていた。
今遺影に写っている優しそうな表情のおばあちゃんには余裕が見える。だが、怖い話をしている時、余裕などという言葉は一切感じられるものではなかった。
「身代わりが来たのかも知れないね」
どこからか、声が聞こえてきた。最初は賑やかな場の中での錯覚かと思ったが、そのわりにはハッキリと聞こえた。しかもその声には聞き覚えがあったのだ。
――誰だったんだろう?
少し篭ったような声、前に一度聞いて少なからずの驚愕を受けたことを思い出した。しかしその声がすぐに誰かは思い出せなかった。少なくとも通夜の間はそればかりが気になっていたわりに思い出せない。あまり気持ちのいいものではなかった。
通夜からの帰り、表には大きな月が出ていた。大きくて満月なのだが、それほど明るくない。暗い部分と明るい部分がハッキリとしているにもかかわらず、全体的に暗いのだ。
雲が月を覆い隠そうとしている。風が強いのか、雲の動きが早い。隠れたかと思えばすぐに姿を現し、またすぐに隠れる。その繰り返しだった。
――身代わりって何だろう?
そう考えながら月を見ているとおばあちゃんが話していた妖怪の話を思い出す。身代わりに今も誰かがそこに立っているのだろうか?
他愛もない発想だが、真剣にそう感じた。同じように今自分が見ているのと同じ月を見ているような気がしてならない。
月を見ながら歩いている。追いつけそうで追いつけない。一旦月が目に入ってしまうとそこから目が離せなくなってしまった。
信二は小さい頃からそうだった。一つのことが気になってしまうと、そこから目を逸らすことができなくなる。それが恐ろしいことであっても同じで、そういえば、小学生の頃に偶然見かけた交通事故でもそうだった。
まだ両親が仲良く、休日にはいつも家族三人で百貨店に出かけたりしていた。百貨店の前には歩行者天国ができていたりして、たくさんの子供がチョークで道に落書きをしていた。
信二はしなかった。何が楽しいか分からなかったからだ。だが、百貨店の屋上から見下ろした時に見える光景は、何とも言えないものがあった。芸術作品を見ているような気がして、すぐにそう感じた自分の考えを否定していた。
――どうして否定したのだろう?
きっとくだらないと思ったことが、想像以上に自分の心を打ったことが悔しかったのではないだろうか。人の心を打つことがどれほど気持ちのいいことか、その時の信二には分からなかった。
中学に入ってから、絵を描き始めた。芸術作品とまではいかないが、自分ではかなりのところで満足をしていた。先生も、それなりに評価していてくれたし、悪く言う人は一人もいなかった。
コンクールにも出展してみたことがあった。それも先生の推薦によるものだ。佳作だったが入選した。まわりは大袈裟に騒ぐが、なぜか信二自身は冷静だった。まだまだこれからだと思っていたからだろう。
――絵を描いている時が本当の自分なんだ――
いつも心に言い聞かせていた。
「君の絵は何かを訴える絵なんだよね」
先生にそう言われたが、
「僕は絵を描く時は何も考えていません」
と答えた。本心である。
「そうだろうとも」
そう言って、それ以上は何も言われなかった。意味深だが、何となく分かるような気がしていた。
芸術的なものとは何かをいつも追い求めていた。ピカソの絵などのように理解できないものが評価されたりする。自分が素晴らしいと思っても、まわりの人はどう感じるだろう。それを考えると、他の人の作品もたくさん見ないといけないように感じられる。
どんな絵だって、その人の気持ちが入っていて、自分が見えている通りに描かれている。だから世界に一つしかないものだろうし、それを感性というのだろう。見えたとおりに、感じたとおりに表現できるかが芸術というものではないだろうか。
信二は月を見ているとそのことを思い出す。事故を目撃した時に目が離せなかったのはあたりに飛び散った血が鮮やかに真っ赤だったからだ。あれほど鮮明な赤を今までに見たことはなかった。これからも見ることはないように思う。
「あの人の真っ赤な血は、きっと他の誰かの中にも流れているんだろうな」
父がそう呟いていた。父にも真っ赤な血が気になって仕方がなかったのだろう。
父も芸術家の端くれだった。陶芸に造詣が深く、普段は仕事をする傍ら、陶芸教室で臨時講師も兼ねていた。信二はそんな父の背中を見て育った。
――いよいよ父親に似てきたな――
そういえば、最近の母の信二を見る目が少し違ってきた。大人を見るような目ではあるが、時々嫌悪感を感じることがある。それは、信二の後ろに父親を見ているからではないだろうか。
交通事故を見た時、思わず父の顔を見上げた。その顔は真っ赤で、まるで血が光っていて、父の顔で反射しているのではないかと思えるほどだ。
その時の父の顔は恐ろしかった。表情は不気味に歪み、そのくせ何かから開放されたような表情が浮かんでいる。
それからの父は人が変わってしまった。あれだけあまり細かいことを気にするのが嫌いだったにもかかわらず、ちょっとした違いに目ざとくなってきた。気がつくようになったというか、神経質とはその時の父のような人のことをいうのだろう。
作品名:短編集30(過去作品) 作家名:森本晃次