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短編集30(過去作品)

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 まっすぐに上がっていく湯気だった。今までに見たこともないような珍しいものを見たことを感じ、しばらく湯気の行方を追いかけていたかった。しかし、じっと見ていると、そのうちに歪んでくるのを感じ、いつものような湯気に戻っていた。それもどれくらいの時間だったか分からない。
「どれくらい寝ていたのかな?」
 思わず声を掛けていた。
「あまり時間は経っていませんよ。あまり時間が経っていれば、私も起こすべきか考えますからね」
 確かにそうだ。スパゲティもコーヒーも湯気が立ったままだし、まわりの光景にまったく変化がない。まるでタイムスリップして、時間だけを越えたような錯覚を覚えた。
 いや、その間隔は適切ではない。時間を越えたという感覚がないのだ。まわりには何の変化もない。あるのは、自分が眠ってしまったという事実だけだ。
――夢を見ていたのだろうか?
 そんな感覚はない。やはり時間を飛び越え、ここに戻ったという感覚なのだろうか。
 学生の頃に読んだSFで同じような感覚になった。
 本を読むと睡魔に襲われるのは手島だけではない。誰でもがそうだろう。しかし、その時に読んでいたSF小説は最初からストーリーに嵌ってしまって睡魔がなかなか襲ってこなかった。
――こんなことは今までになかったな――
 と睡魔が襲ってこなかったのを感じたまさにその瞬間だった。今度は気がつけば、寝起きだった。本を片手に眠っていたのである。睡魔が襲ってくる感覚を感じることなく眠ってしまったなど、後にも先にもその時だけだった。
 目の前の女性の顔がハッキリ見えてきた。見覚えのある顔は、やはり昨日の夢に出てきた赤いエプロンの女性である。
 思わずポケットをまさぐってみる。四角いものが手に当たり、それが手帳であることはすぐに分かった。手元に取り出した真っ赤な手帳を見た時、不思議な感覚に襲われた。
 その原因はすぐに分かった。昨日見た時はあれだけ使い古されたくたびれたような表紙だった手帳が、まさに新品同様に光って見える。無造作に置いていたらきっと目立つに違いない。
 手帳を机の上に置いて、彼女の様子を見てみたくなった。
――これがもし彼女の手帳だったらどんなリアクションを示すだろう――
 そんな想像を楽しんでいたが、絶対に違うという自信めいたものがあるからかも知れない。あまりにも手帳が綺麗過ぎることから違うと思うのだが、本当に目の前に置いた手帳が拾ったものかどうかすら曖昧な気がする。
 席を立って雑誌を探しに行く。彼女がちらりとこちらを見たが、カウンターの上に置かれた手帳を気にする素振りは見せない。わざと客のものに関心を示さないのかも知れないが、それにしても本当に見ないのだ。
 気にしている自分が今度は妙な気分になってくる。相手が気にしないのに自分だけが気にしているなど、不公平な気がしてくる。勝手に自分で想像しているだけなのに、相手があまりにも気にしないと、脱力感だけが残るのだ。
――おや?
 少しゆっくり雑誌を選んで席に戻ると、目の前にあったはずの手帳が消えていた。
 最初はなぜそこにないのか、漠然と不思議に感じただけだった。だが、次第に事の重大さに気付き始める。そこにあった手帳は人のものなのだ。いくら中身に何も書いていなかったとはいえ、紛失するということは、一大事ではないだろうか。手島はそういうことを気にする性格である。最初は他人事のように感じていても、次第に圧迫されるような気持ちに陥る。息が荒くなり、汗が額や背中に滲んでくる。ただ、他の人よりも感じ方が鈍いせいか、却って陥ってしまうと、抜けるまで後が長いのだ。
――こんなことなら出さなきゃよかった――
 と感じても後のまつり、時間を戻せることができればと、今までにも何度感じたことだろう。それを後悔というのだろうか、
――反省はするが、後悔はしたくない――
 と言っていた先輩の言葉を思い出した。反省は先に繋がるが、後悔はその時だけだ。後のまつりとはまさしくそのことなのだろう。
 それにしても彼女が取るだけの時間はないはずだ。いくら雑誌を選んでいたといっても、時々後ろをきにしていたはずだからである。
 冷静にそこまで考えられる自分が、いつも不思議だった。自分のミスでものをなくしたり、トラブルがあった時も意外と冷静だったりする。自己分析までできることがあるくらいで、ある意味冷静な自分を楽しんでいたりする。そんな余裕などないはずなのに、他人事と思える自分が逃げに入っていることを分かっているのだ。
 手帳があったところがクッキリと白く浮かび上がっているように思うのは気のせいだろうか。木目調のカウンターは、その部分だけが白く浮かび上がっているのだ。
――そこに手帳があったことは間違いない――
 心の中で何度も呟いた。
 自分の声がこだまするのを感じた。銭湯の中の洗面器のような心地よい音が響いたかと思うと、手島は自分が我に返ったのを感じた。
――夢だったのか――
 目の前のカウンターに顔を伏せるようにして眠っていたようだ。よほど心地よかったのか、それとも疲れていたのか。どちらにしても最近にないほどの心地よい目覚めだったことは間違いない。
 程よい頭痛というのが実際にあるのだろうか。もしあるとすればその時の目覚めがそうなのかも知れない。かすかな頭痛を感じたが、それも痛いというところまではいかない。むず痒さが感じられ、適度な刺激が目覚めを効果的なものにするのだ。
 程よい頭痛があるからだろう。夢の世界から現実に戻るためにはあまりにも心地よい日差しを浴びている。痛みでもなければずっと夢の世界から出て来れないのではないかと思えるほどだった。
 顔の右半分をカウンターにつけたまま目が覚めた。そのまま顔を上げるには少し時間が掛かった。思った以上に力が入らないのだ。目だけでまわりを見ようとするが限界があるようで、目は正面のカウンターの上を見つめていた。
 目覚めだからだろうか、遠近感が微妙にずれているようだ。もっとも目覚めでなくとも顔が横を向いているのだから、正常な平衡感覚など取れるはずもなく、どちらの目に焦点を合わせてよいかを模索していた。とりあえず右目に焦点を合わせてみることにした。限りなくカウンターに近い角度で見つめていると、目の前に何かがあるのに気がついた。
 それが何であるか最初は分からなかった。正面から西日が当たって、完全にシルエットのようになってしまっている。色はもちろん、形も分からないが、どうやら平面的なものであることは分かってきた。
 平面で四角いもの。手島にはそれが何であるか、想像がついていた。それはきっと夢の内容を覚えているからだろう。
――夢にしてはリアルだったな――
 夢の中で探していたものが見つかったのだ。そう感じると、眩しかったはずの西日がそれほどでもなくなってきた。
 シルエットが次第に影を作らなくなっていく。伸びていた影が木目調に吸収されるように感じると、色がよみがえってくるようだ。
作品名:短編集30(過去作品) 作家名:森本晃次