短編集30(過去作品)
時系列はバラバラだったり、自分の意識だけが現在だったりする。例えば学生時代の夢を見ることがあるが、そんな時、まわりの皆は学生なのに、自分だけ社会人だという意識があるのだ。もちろん自分も対等に友達と話をしている。意識だけが社会人なのだ。
その日に拾った手帳、見てはいけないと思いながら躊躇している時間がどれだけあったか分からない。顔を上げて前を見るが、すでに女性はいなかった。角があるのでそこを曲がったのだろう。追いかける気力はなぜか失せていた。
しばし立ち止まり手帳の表を見たが、
――文面さえ見なければいいだろう――
とさすがに好奇心には勝てず、中をペラペラと捲ってみた。
中は何も書かれていない。思わずホッとしたが、結構年季が入って使い古されたような手帳なのに不思議だった。
朝もやはまだ掛かっていたが少し蒸し暑さを感じてきて、生暖かさがあった。昼間は暑くなりそうな予感があったが、もやは会社につく頃には消えているように思えた。
駅に着くと、早い時間ということもあり、いつもの雑踏はなかった。その頃には頭の中は仕事のことでいっぱいになっていて、嫌な気分がまた生まれていた。目の前を歩いていた女性を意識していて、その人が手帳を落としたこと。さらには、彼女との距離を縮めることのできなかったことが少し気持ち悪くなってきた。朝という時間帯が特殊なのかも知れない。これが夜ならどうだっただろう。本当に夢として片付けていたように思う。手帳を拾ったことを不思議に思うだけで、朝ほどリアルな感覚ではないだろう。
会社に着くと、すでに数人の社員が出勤していた。
――こんなに早く出勤しているなんて――
しかも彼らは机の上のパソコンのモニタに向かって微動だにしない。表情は真剣そのもので、かなり前からいたように思える。
「おはようございます。皆さん早いですね」
思わず声を掛けた。声を掛けにくい雰囲気でもあったが、彼らは落ち着いていて、
「おはようございます、手島さん。今日はどうしたんですか? 早いですね」
「ああ、会議が朝からあるからね。その準備で早く来たんだよ」
「そうですか、僕たちはいつもこの時間ですよ、そうでもしないと仕事が追いつきませんからね」
確かに彼らはさばける分、仕事も回ってくるようだ。目の前の仕事をこなしていればいい頃が懐かしくなってきた。
さすがに普段しない早起きのせいか、会議中に睡魔が襲ってくる。何とか無事に切り抜けた頃には、すでに昼休みを大きくまわり、三時近くになっていた。会議中はあまり感じなかった空腹感が会議終了と同時に押し寄せる。
会社の表に出て近くの喫茶店に向かった。普段は近くで弁当を買ったりして事務所で食べるのだが、すでに昼休みはすぎていて事務所で食べるわけにもいかない。しかもこの時間ともあれば喫茶店は空いているだろう。眠気覚ましにコーヒーを飲みたい気分でもあった。
以前から行ってみたいところではあったが、なかなか立ち寄る時間もなく、基本的に混んでいる時の喫茶店には行きたくないと思っていた手島は、意識はしていたが初めて入る店だった。
雑居ビルの一階にあるその店は、どこのオフィス街にでもあるようなこじんまりとしていて、中に入ればカウンター、そして奥には三つほどのテーブル席があるだけだった。木目調のテーブル、カウンターに壁は白壁と、明るさにシックを散りばめたハーモニーが特徴だ。
さすがに三時をまわっているとサラリーマンの姿は少ない。いるとしても営業の人の時間調整くらいではなかろうか。
表はまだ少し蒸し暑いので、中に入るとクーラーが効いている。西日が差し込む昼下がり、この時期では当然で、しかし時間帯に気をつけないと、時間が経つにつれ、こんどは寒くなってしまいそうだ。
――その時は店の人に言えばいいんだ――
と思いながらカウンターの一番奥に腰掛けた。
席が空いている時に、それが馴染みの店でなくとも自分の指定席になりそうなところへと無意識に腰を下ろす。手島にとっての指定席はカウンターの一番奥である。そこに座っていれば誰かが入ってくる入り口も、奥の方もすべてが見渡せる気がするからだ。上着を隣の席に置き、一息ついた。
――何となくだが、初めて来た店という感じがしない――
席についてあたりを見渡し、そう感じた。
広さにしても、目の前に広がる光景にしても同じで、表を通る車にまで記憶があるように感じる。今までにも初めて来たはずなのに、前から知っていたように思えることがあった。そんな時は、
――きっと夢で見たんだ――
と思うことで納得することにしている。
この店でも同じ感覚があった。奥から店の人が出てきた。思わず振り返ったところに飛び込んできたのが、真っ赤なエプロンだったのだ。
――偶然だろうか?
昨日の夢に出てきた真っ赤な色が目に焼きついて離れない今、目の前に現れたエプロンの色はまさに昨日の夢同様である。
「いらっしゃいませ」
トレーに水だけを乗せ、女の子がわざわざホールに出て、後ろから水を置いてくれた。露骨に後ろを振り返ることもせずにいると、後ろから差し出した手だけが見える。その真っ白な手に触れてみたい衝動を堪えている自分に気付くが、よく見ると彼女の手も震えていた。
「メニューをどうぞ」
メニューを取って見ている手島の邪魔をしないように少しだけ離れて彼女は待っていた。まわりを見ると客はおらず、他を気にしなくてもいいからできるのだろう。しかしあまりゆっくりしているのは気の毒なので、
「スパゲティセットを、ブルマンで」
「はい、かしこまりました」
カウンターの中に入り再度彼女の顔を見ると、昨日の夢が思い出される。ポニーテールに背がスラリと高い女性、まさに夢を思い出さないわけにはいかないほど似ている気がした。
昨日の夢で見たことがない女性だと思ったのを思い出したが、今から思えばそれは誤解だったように思う。夢の中でもどこかで会ったことがあると感じていたように思えて仕方がない。
頭を下げて調理している姿は、顔が見えないが一生懸命なのだろう。その姿はまさしく夢の中に現れた女性を想像させる。
スパゲティの香ばしい香りが店内に充満してきた頃、手島は睡魔に襲われていた。店内に差し込む西日が心地よく睡魔を誘い、しかも大好きなスパゲティの香ばしい香り、それだけ揃っていれば睡魔も襲ってくるというものだ。
コーヒーの香りも十分に感じる。飲めば睡魔を抑える効果があるコーヒーだが、香りには却って睡魔を促進する効果を感じる。きっと落ち着いた雰囲気にはコーヒーの香りが最高だと思っているからだろう。匂いを嗅いでいるうち眠気に襲われることもしばしばだ。
どれくらい経ったのだろう。手島はやはり眠ってしまっていたようだ。気がつけば、テーブルの上にスパゲティが置かれていて、その横にはコーヒーが香ばしい香りとともに、湯気が立っていた。
作品名:短編集30(過去作品) 作家名:森本晃次