短編集30(過去作品)
その時の手島はそれが夢の中だと把握していた。なぜ夢だと思ったかというと、それはその次の日に同じ人を朝の通勤で見かけたからだ。
――どこかで見たような……。しかもごく最近――
それが夢の中だったということを思い出すまでにそれほど時間は掛からなかった。なぜならあまりにもシチュエーションが違いすぎたからだ。通勤時間が早すぎるためか、暗闇の中で歩いている彼女は、まったく目立っていなかった。ただ人が少ないので嫌でも目に付くという程度で、手島も夢を見た記憶がなかったら気にしなかったに違いない。だからこそ、見たのが夢だと思ったのだ。
長い髪が光っていた台所でのイメージが強かったが、朝の通勤で見かけた時、一瞬髪が光ったように感じた。その時に初めて夢を思い出し、台所でずっと眺めていた後姿が本当に夢だったことを自覚したのだ。
――正夢だったのかな? いや、予知夢というべきかも知れない――
どちらでもいいのだが、やはり後ろ姿しか見ることができない。少し早歩きをしても追いつくことはできず、歩くスピードを変えても視界を占有する大きさに変わりはない。一定の距離を保ったままなのだ。
追いかけている意識はないが、相手に逃げられている意識だけは持っていた。被害妄想的な考え方がある証拠だろう。
後姿を見ているからなのか、今までに見た女性の中でも一番スリムだ。朝もやの中に差し込む日差しがそう感じさせるのかも知れないと思ったが、夢の中でも同じことを感じていた。だからこそ歩いている女性が気になって仕方がないのだ。
時間が経つにつれて、以前から知っていた女性のように思えてきた。時間は経ってくるのだが、それは等間隔ではない。次第に時間の経過が遅くなってくるように感じるのは気のせいだろうか。
――おや?
彼女が何かを落としたようだ。気付かずに歩いているが、拾って渡してあげようと思っても、身体が思うように動けない。駆け出そうとするのだが、まるで水の中を歩いているように身体の前にある抵抗になすすべもない。
――どうしても追いつくことができないんだ――
そう感じると却って焦ってしまう。早く拾いたいという気持ちはあるが、視線を彼女の背中か足元の落し物のどちらに向けていいか分からない。だが気持ち的には後姿を追いかけていて、距離を縮めることができないのが一番の理由かも知れない。
それが手帳であることに気付くと、そこから目が離せなくなった。最初は大き目のノートかと思ったが、ノートを落とすなど普通考えられない。しかも彼女は手ぶらではないか、考えられるのは手帳か定期入れしかない。定期入れでないことは最初から分かっていたような気がする。四角いものを見つめていると色が次第に分かってくる。女性らしく真っ赤な手帳だ。
――拾ってすぐに届けてあげたい――
と感じたが、足の重たさはいかんともしがたく、どうしてもまともに歩けない。こうなったら焦っても仕方がない。目の前にある赤い手帳を目指した。
――これこそ夢じゃないのだろうか?
夢とは潜在意識が見せるものだ。したがって自分の意志に逆らうことが夢には往々にしてある。夢を見ているという自覚があるからに違いない。自覚があるからこそ、焦っても仕方がなく、なるようにしかならないと考える他なかった。それが自分の潜在意識なのだから……。
やっとたどり着いて拾い上げる。表紙は何も書いていない無地に真っ赤な手帳だ。原色が好きな手島には、とても新鮮に感じられた。最初は真っ赤に見えたのだが、次第にワインカラーに見えてきたのは目が慣れてきたからに違いない。
中を捲りたい衝動に駆られるのを抑えながら、頭を徐々に上げた。そうでもしないと無意識に捲って中を見てしまいそうに感じたからだ。手帳からは仄かに甘い香りが漂っている。そう感じると、朝もやにも匂いがあるのを感じた。
石の匂いを感じる。
小さい頃、お世辞にも運動神経がいい方だと言えない手島は、それでも友達と同じように冒険心だけは旺盛だった。よく木登りや危険な遊びをしては怪我をしていたのだ。危険なことをすることを大人が過剰に意識し始めた頃だったので、よく親や先生から、
「あまり危険なことをしてはいけません」
と言われ、その顔が本当に真剣だったのを思い出した。親の心配は当然として、実際に危険なことをして重症を負った隣のクラスの友達の責任を取って、辞任した担任もいたくらいである。自分の担任も他人事ではなかっただろう。
よく怪我をすると呼吸が一瞬止まってしまうようなことがある。そんな時には、
――あ、怪我をしそうだ――
と先に気付く。不思議なことだが、どうして分かるかというと、目の前の色と匂いが微妙に変わるからだ。目の前の色が黄色かかってしまい、気がつくと石をかじった時のような匂いがする。
きっと鼻の通りがよくなるからではないだろうか。怪我をする前に思い切り息を吸い込むような気がして仕方がない。吸い込んだ息を吐き出している瞬間に怪我をする。だから一瞬呼吸ができなくなるのだと思っている。
石の匂いを感じると鼻の通りがよくなったという自覚に陥る。すると、何かよからぬことが起こるのではないかと余計な心配をしてしまうのも無理がない。誰が何と言おうとも気になるのだ。
手帳から感じる匂い、そして周りの匂いを感じていると、前を歩く女性の雰囲気がおぼろげながらに浮かんでくる気がしていた。物静かであまり自分から話す方ではなく、昼下がりにコーヒーを飲みながら本を読んでいる雰囲気が瞼に浮かんでくる。ただし、決して目立つ雰囲気ではない。誰からも意識されずにいることのできる人、気配が漂わない人なのだ。
――ひょっとして一定の人にしか存在が分からないかも知れない――
今こうして後を追いかけているが、他の人から本当に彼女が見えるかどうか、疑問に思えてくる。
夢の中の彼女も赤いエプロンが似合っていた。手島が感じると目立つ色が似合う女性なのに、他の人には気配すら感じさせない雰囲気に思えるのはなぜだろう。ほとんど後ろ姿しか意識がないはずで、自分の好みの女性とは雰囲気が違うのに、気に入ってしまったのだろうか。
手島はずうずうしいくらいのところもあるにはあるが、基本的には謙虚な方だと思っている。
「お前のは謙虚というより、自分に自信がないんだよ」
手厳しい指摘を受けたこともあるが、間違いではない。自分に自信がないから空元気を出そうと思い、ずうずうしくなる時がある。本当に自分に自信がある人にこそ謙虚という言葉が似合うのだ。手島は自分がいわゆる謙虚な人間だとは思っていないが、他に言葉で言い表しようがないので、謙虚という言葉で納得しようとしていた。
赤いエプロンは潜在意識だ。かねがね赤いエプロンの似合う女性に食事を作ってもらいたいと思っているからで、願望が見せた夢であることは間違いない。
夢というのは、覚えているようで意外と覚えていないことも多い。繋がっているように思えて繋がっていなかったりする。
作品名:短編集30(過去作品) 作家名:森本晃次