追蹤
そしてまた幾春かが過ぎ、十六歳になられて間もないあの日、瑛子お嬢様のご結婚が決まったのです。
お相手はさる高名な外交官の蔵元様という方であり、瑛子様のことは鹿鳴館で見初められたとのことです。人望に厚く、外交官としても有能なお方だと聞き及んでおります。瑛子様がそのような方の奥方になられる。誠に喜ばしいことに存じます。
その朝、私はお祝いの言葉と今後のご予定をお伝えするため、お嬢様のお部屋へと向かいました。オーク材の重厚な扉をノックすると、どうぞお入りになって、と中からかすかにお嬢様のお声が聞こえました。
その時お部屋の中で目の当たりにした光景は、今でも脳裡に焼き付いております。瑛子様は舞踏会用の裾の長い鳶色のドレスをお召しになり、艶やかな黒髪は上品に結われ、簡素な羽飾りで纏められていました。薄暗い部屋の中で、その美しい横顔だけが窓辺のぼんやりとした光に照らされ、その目はどこまでも広がるつつじ畑と、その先に穏やかに揺れる海とを見つめておられました。私は暫く言葉もなく立ち尽くしておりました。しかし、間もなくお嬢様がゆっくりとこちらに向きなおられた時、私は漸く自分のなすべきことを思い出したのです。
「瑛子様。この度は誠に御目出度う御座います。」
「有難う。辻村」
お嬢様はそう一言だけ仰ると、少し微笑み、再び窓の方に目を向けられました。
私が続けて本日のご予定を簡潔にお伝え申し上げている間、お嬢様はずっと窓の外をご覧になっていました。一通りお話を終え、改めてお祝いのご挨拶を述べた上で、私は最後に深く一礼し、退室申し上げようと致しました。
「辻村。」
振り返ると、瑛子様が真直ぐにこちらを見つめておられました。その瞳が吸い込まれそうなほど深い色を湛えておられるので、私はそこから目を離すことができませんでした。
「私、今でも夢に見ているのよ。」
「……どのようなことを、でございましょう。」
「貴方がまた、私の手を取って、どこか遠い所へ連れて行ってくださるのではないかって。お屋敷も、霧島家も、……政略結婚も、ない所へ。」
私ははっとしてお嬢様のお顔を見ました。瑛子様は相変わらず黒く潤んだ瞳で、こちらを真直ぐに見つめておられました。その時、かつてお嬢様の腕を強かに掴んだ芳江と、ぐらりと揺れた翡翠の玉簪のことが思い起こされました。
「お嬢様。そのようなことを仰ってはなりません。」
私は思わず語気を強めていました。申し上げてしまってから後悔を致しましたが、お嬢様はなお静かに私を見つめ続けておられました。私は続けて努めて穏やかな口調で申し上げました。
「……瑛子様。私は、霧島家の家令でございます。丁度船頭と船のように、家令はお屋敷と運命を共にするのです。ですから、……私にご案内できるのは、精々お屋敷の裏山まででございますよ。瑛子様をもっと広い世界にお連れしてくださるのは、外交官であらせられる蔵元様にほかなりません。僭越ながら、瑛子様がそのような方の奥方になられることに誇りを持ち、一人の女性として、どうか立派に蔵元様をお支えしていかれるよう、私は切に願っております。」
お嬢様は私の言葉をじっと目を閉じてお聞きになっていました。それから少し微笑み、
「あら、辻村。冗談よ。」
と仰ったのでした。
私がお部屋を退室致しました時、オーク材の暗い扉ががたりと閉まり、それは重く冷たく我々の間に横たわりました。その時、私は不意に直感したのです。瑛子お嬢様は今、この扉の向こうで、おひとりで泣いておられる。扉の前はしんと静まり返っておりましたのに、何故ともなくそう感じたのです。胸がひどくざわつき、私は思わず目の前の扉に手を触れました。しかし、中に入ることは最早できませんでした。それは許されぬことであるようにも思われました。私は何時でもお嬢様を遠くから見守ることしかできぬ、ひとりの非力な家令に過ぎなかったのです。
扉に手をついたまま、私はその場にくずおれました。家令としてお屋敷に仕えて以来、この時まで涙を流したことはありませんでした。声を殺したまま、早く立ち去らねばと思いながらも、私は何時までもそこから動くことができませんでした。誰も見ていないのをいいことに、涙はあとからあとから頬を伝いました。熱く火照っていく掌に、扉はそれでも無機物の冷たい感触を返してくるのみでした……