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地井野  駄文
地井野 駄文
novelistID. 64685
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 それからまた、幾春かが過ぎました。瑛子お嬢様は十二歳になられました。毎朝薄紫色の矢絣のお召と海老茶色の袴に窮屈そうに袖を通し、つつじのお庭を下り、鉄道に乗って女学校へ行かれます。もう十二歳でいらっしゃいますから、身の周りのお世話は私よりも女中達に任せられることが多くなりました。女学校では常に優秀な成績をおさめられ、またご学友も多くいらっしゃるとのお噂を常々耳にしておりましたが、所謂良妻賢母教育におけるお花やお茶、お裁縫といった花嫁修業よりは(もちろん、そのような科目も瑛子様は手際良くこなされたとの話ではありますが)、沙翁(シェイクスピア)の戯曲や、仏蘭西革命ほか西欧の歴史などのことについて、妹の淑子様に殊の外好んでお話されているとのことでした。

 ある日曜日の朝、私が庭でつつじの植木の手入れをしておりますと、いつの間にかお嬢様が間近に立っておられました。思えば、お嬢様のお顔をお近くで拝見するのは随分と久方ぶりでした。白い肌にはうっすらと紅みがさし、黒目がちな瞳に繊細な睫毛が影を落としていました。誠に、絵画の中から抜け出たような美しいお顔に、私は失礼を忘れてじっと見入っておりました。
「そんなに摘んだら、お庭の花がなくなってしまうわ、辻村」
お嬢様が微笑まれると、小さな八重歯が悪戯っぽく覗きました。父が一年前に病気でお屋敷を退いてからというもの、私は姓の方で呼ばれることが多くなっておりました。
「なに、お嬢様が蜜を召し上がる分は残しておりますゆえ、ご心配なさりませんよう。」
私がお返事いたしますと、瑛子様は大袈裟に頬を膨らませました。
「あら、そんなはしたないことしないわ。それに、お嬢様ではなくて瑛子よ。」
そこまで仰ったところで、お嬢様はふふ、とふきだしてしまわれました。それから暫く我々は二人して顔を見合わせて笑いました。お嬢様の笑ったお顔は六年前と一寸もお変わりがないように思われました。
「辻村。一つお願いがあるの」
瑛子様がふいに真剣になって仰います。
「来週、グラント将軍の船がいよいよ横浜港にいらっしゃるわ。」
「ええ、存じておりますとも。」
グラント将軍は、かつて米国で大統領を務められていたお方でした。この度奥様との世界旅行の最後に我が国に立ち寄られ、これまでに長崎や清水などにも寄港されたとのことですが、ゆく先々で熱烈な歓迎を受けていらっしゃるとの記事が連日新聞に掲載されているのでした。
「とても立派な蒸気船だそうよ。私、見てみたい。どうか連れて行ってはくださらないかしら。」
お嬢様の瞳は遠く光る海を見つめていらっしゃいました。その目は物憂げに細められており、それが切実なる願いであられることは明らかでした。私はしばし瑛子様の視線の先を見据えた後、申し上げました。
「申し訳ございません、瑛子様。寄港の日は旦那様の大切なお客様がお屋敷にいらっしゃいますので、私はご一緒することができないのです」
お嬢様はじっと私をご覧になった後、目を伏せて、仰いました。
「……そう。残念だわ。」
「しかし、小間使いの三代子ならば、比較的時間の融通が利くと存じます。当日は三代子に同行させましょう。」
三代子は若い女で、瑛子お嬢様のお世話もよく担当している小間使いの一人でした。彼女とならば、お嬢様が不要なお気遣いをなさることなくお出掛けすることができると思ったのです。
「そうね。有難う。楽しみだわ。」
お嬢様は明るく仰いました。しかしその声色には、どこかご無理をなさっているような調子が見て取れるのでした。
「瑛子様……」
「ピアノの練習があるからもう行くわね。またお話しできると嬉しいわ。」

 その二日後、二階の窓からふと下を見下ろしますと、瑛子様が夕暮れの中お庭に佇んでおられました。その手には一輪のつつじが握られていました。暫く見ておりますと、お嬢様は徐にそれを口元へおやりになり、まるで六年前に戻られたかのように、花の先端を咥えられたのです。私は思わずくすりと笑ってしまいましたが、お嬢様の子供っぽい悪戯を見過ごすわけにも参りません。私は諫言申し上げるために階下へ参ろうとしましたが、そうする間もなく、つつじの花は瑛子様の白い指の間から零れ、喇叭はそれきり吹かれることがありませんでした。瑛子様は海の方を向いて俯いておられ、その後ろ姿には、何か思い詰めておられるようなご様子が見て取れました。私はお声を掛けるべきか否か悩みました。しかしお嬢様の個人的な事柄にあまり立ち入るのも憚られ、その日は遠くから見守るだけに留まりました。
作品名:追蹤 作家名:地井野 駄文