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地井野  駄文
地井野 駄文
novelistID. 64685
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 私ははぐれないように瑛子様のお手を取り、裏山の道をご案内いたしました。前日の雨で道はぬかるんでおりました。ところどころに生えている山吹の花に残った雨の雫がきらきらと輝き、茂みの奥から蜥蜴の青く美しい尻尾が素早く翻って見えました。お屋敷の周りではあまり見られない光景に、瑛子様はひとつひとつ目を奪われておられるようでした。

小川とも呼べない小さな水の流れに沿って、湿った土の匂いのする砂利道を三十分ほども歩んだでしょうか。
……ふいに視界が開け、幹の幅四尺もあろうかという大樹が目の前に聳え立ちました。我々の探し求めていた楠に間違いありませんでした。
 私もお嬢様も、暫く息を飲んでそれを見つめておりました。優しい木漏れ日が我々の上に降り、葉の擦れあうざあっという音だけが聞こえました。
「ほんとうに、立派な木ね」
ふいに瑛子様が呟かれ、弾むようにして木の根元へと駆けていかれます。両腕を一杯に広げ、幹に倒れかかるようにしてしがみつかれたお嬢様に、お召し物が汚れます、とご忠告申し上げようとしましたが、
「林吉見て、こんなに大きいのよ。」
と、これ以上ないほど幸せそうに笑っていらっしゃるのを見て、口を噤みました。ひとりの美しい少女が豊かな黒髪をなびかせて、大木の周りを駆け回る光景の前では、すべての時が静止したように感ぜられました。その静謐は永遠に続くかのごとくに思われました。
しかしその永遠はある一瞬間によって、無残にも打ち砕かれることとなったのです。
 
 ふいに瑛子様のお体がぐらりと揺れました。あっと思い、咄嗟に抱きとめようといたしましたが、間に合いません。お嬢様の小さなお体は、そのまま今躓かれた鋭い石の上に倒れてしまいました。
 一瞬の沈黙がありました。そして間もなく、瑛子様がわあっと叫ばれました。私はお嬢様のもとに駆け寄り、急いで傷口を調べました。膝の頭と、手の平をひどく擦り剝いておいででした。私は傷口の砂を水で流し、瑛子様を抱き上げ、もと来た道を脇目もふらず下りおりました。十五分と掛からない道のりではありましたが、今まさに痛みに泣き続けておられる瑛子様には、ずっと長く感じられたことでしょう。

 しかし、漸くお屋敷が見えてきた時、腕の中の瑛子様が涙を拭き、毅然とした声でおっしゃったのです。
「林吉、もういい。おろして頂戴。」
 しかし、と私が申し上げるのを遮って、こう続けられました。
「私は大丈夫。お屋敷の控えの間まで、歩きます。ついたら、貴方が手当てをして。」
瑛子様は立ち上がってお洋服のスカートで膝を隠し、お言葉の通りにお屋敷までご自分の足で歩かれました。真直ぐに前を見つめ、唇をきゅっと結んで歩まれる横顔には、既に霧島家の長女としての矜持が宿っておられるようでした。
 控えの間には、お薬や包帯などを備えた救急箱がありました。私は急いで椅子をご準備し、お嬢様にお座りいただきました。傷口からはじわりと血が滲んでいましたが、幸い、それほど深くはないようでした。私はお嬢様のお膝と手の平に消毒液を塗り、綿紗でそっと覆いました。
「瑛子様、もう痛くありませんか。」
愚かな私は、お嬢様が泣き止まれたので、痛みも引いておられるのだと思ったのです。ところが、
「……痛いわ」
そう呟かれた瑛子様は、再び目に涙を浮かべていらしたのでした。
「瑛子様……。何故、先ほどは我慢なさったのです。」
「今回のことは、私が我儘を言った所為なのです。林吉はなにも悪くないわ。だから、」
そこまで仰って、瑛子様は手の平に顔をうずめられました。そこに至って漸く、私はお嬢様が、私の為に――私が、お嬢様に何かあれば御父上に叱られてしまう、と申し上げたあの言葉の為に、痛みを堪えてまであのように振舞われたのだと、悟ったのです。怪我のことがお屋敷の者に伝われば、私は責任を問われることになるでしょう。瑛子様はそのことを気に掛けてくださったのです。胸の奥が熱くなるような心持ちがいたしました。あの小さかったお嬢様は、いつの間にかしっかりとした、心のお優しい女性になられていたのです。
 しかし、例えお嬢様が庇ってくださったとしても、私がお側にいながらお怪我をさせてしまったことは事実です。また、私がしたのは間に合わせの措置ですから、きちんと医学の心得のある者にも診てもらわねばなりません。私はお嬢様のお手を取り、努めて微笑んで申し上げました。
「瑛子様、そのような勿体なきお心遣い、誠に何と申し上げてよいか……。どうかお顔を上げてください。お疲れになったでしょうから、温かいお茶を持ってまいりましょう。瑛子様は、どうぞこのまま安静になさっていてください。」
しかし瑛子様は、はっとして私の着物の袖を掴まれました。
「待って、私も行くわ。」
瑛子様は、本当に聡いお方でした。私が何をしようとしているか、お気づきになられたのでしょう。じっとしていないとお怪我がひどくなります、と丁重にお断り申し上げましたが、瑛子様は頑なに付いていくと仰います。とうとう根負けして、お嬢様と二人連れだってお部屋を出ました。しかし、瑛子様が私を見張られたとしても、今回のことがお屋敷中に伝わるのは時間の問題でした。お嬢様のお膝や手の平が、白い綿紗で覆われており、お怪我をなさったのが一目瞭然だったからです。
 
 一連のできごとが知れ渡った後、旦那様は私に、お屋敷で一番長い渡り廊下と、裏庭の掃除を命じられました。しかし、それ以上のお咎めはありませんでした。後に伝え聞いたところですが、あの時、瑛子様もまた自室で一時間のお勉強を命ぜられていたとのことです。恐らくは、お嬢様がことの顛末をお話になり、私をあまり責めないよう説得してくださったのだと推察いたします。瑛子様にそのことを深謝いたしましたところ、何のことかしら、と大袈裟にとぼけておられました。

作品名:追蹤 作家名:地井野 駄文