完全なる破壊
しかし、思い出すのは湿気を帯びた石のような匂いだけだった。どうして、レナとの間にあの湿気を帯びた匂いが存在しているのか分からなかった。女同士ということもあり、香水だったり、分泌液の甘酸っぱさだったりする匂いが漂っているのなら分かるが、それだけではなく石や埃の匂いが漂っていたのは、湿気というキーワードには石や埃の匂いが不可欠だという意識があるからなのかも知れない。
――そういえば、レナの髪の毛って、あんなに長かったかしら?
会社では髪を後ろで結んでいるので、あまり目立たないが、レナは会社を出ると、髪を解いて、ロングヘアーをまわりに見せつけようとする。マミもロングヘアーであるが、髪を後ろで束ねていれば、家に帰るまで髪を解くことはしなかった。だからマミが髪を解いた姿を見たことがある人は、会社にはいないはずだった。
レナとホテルに行った時、初めて会社の人間の前で髪を解いて見せた。
「まあ、なんて素敵な髪の毛なのかしら?」
レナはそう言って、マミの髪の毛を撫でるようにしながら、顔を近づけて、妖艶に微笑んだ。
その時はまだ男性のイメージはなく、
――魔性の女――
のイメージを醸し出していたのだった。
「レナさんも素敵な髪をしていらっしゃるじゃない」
というと、レナは少し困惑したような表情になり、
「そう? ありがとうと言っておくわ」
と言った。
その表情は、どこか怒っているように見えたが、
――髪の毛を褒められて嫌な気がする女性なんていない――
と思ったことから、怒りを感じさせられたイメージは、自分の中から消そうと思ったのだ。
「髪の毛がライトに照らされて光るのを見ていると、清潔感があって本当に素敵な気がするのよ。特に髪の長い女性は、同じ女である私から見ても、素敵に感じられるわ」
とマミは言った。
言いながら、短大時代に付き合っていた先生の言葉を思い出していたのだが、その時の言葉というのは、
「僕は、ロングヘアーも好きだけど、ショートヘアーの女の子が基本的に好きなんだよ」
という言葉であった。
マミは、自分はショートは似合わないと思っていたことで、
「そうかしら? 私には分からないわ」
と、はぐらかしてみたが、彼はさらに続けた。
「僕が言いたいのは、ショートが似合う女の子はロングにしても似合うと思っているってことであって、何も君に髪を切ってくれだなんていっているわけではない。君は君でロングが似合うんだよ」
この言葉を聞いて、本当であれば怒らなければいけないはずなのに、なぜか彼の言葉を信用してしまった。
――惚れたが負け――
ということなのかも知れないが、彼の言っていることも冷静になって考えればもっともだと思ったからだった。
彼には前からそういうところがあった。
――最初は不満を感じさせるような言葉であっても、ゆっくりと考えれば、彼の考えに一理あることを思い知らされる――
それが、彼の恋愛テクニックだったのではないかと思えるほどだった。
マミはどこか鋭いところがあった。普段は天然に見える人もいるようだが、ここぞという時には勘が鋭いところを見せるので、人によっては、マミに対しての見方が違っていることも多いようだ。
そのせいなのか、マミは先生を好きではあったが、全面的には信じていなかった。元々人を懐疑的に見ることの多いマミだったので、いくら好きになった相手だとはいえ、全面的に信じることはできなかった。そのため、少しでも疑問点が浮かんで来れば、その人を最初のように愛することができなくなってしまう。
それは先生に限ったことではなく、それまでに好きになった人に対してもそうだったし、それ以降好きになった相手に対しても同じだった。そのため、本気で好きになった相手がおらず、絶えず相手と自分とを比較することで、自分の中にあるであろう相手位対しての愛情の力量を計ろうとしていたのだ。
先生との別れは突然だった。マミの方から避けるようになると、最初こそ先生はマミを放すまいと、何度も、
「話し合おう」
と言って、連絡をしてくる。
しかし、もはや彼のそんな態度を未練としか思えないマミにとって彼の行動はストーカー並みに嫌なものだった。
話し合いたいという彼の言葉を無視し続けると、彼の方も切れてきたのか、
「もういい。お前のような傲慢な女はこっちから願い下げ打。お前は一体何様のつもレナんだよ」
という捨て台詞を吐いて離れていった。
――よかった――
とマミは感じた。
今までなら、そんなことを言われると、顔が真っ赤になって怒りがこみ上げてくるのだが、今回はそんなことはなかった。元々、相手を怒らせるような行動を取ったのは自分なので、当然と言えば当然だし、男の気持ちとしても、承服できないところがあるのは分かっている。
しかし、マミとしては、別れ際くらいは、もう少し潔くしてほしかった。だが、これで付き纏われることもないと思うと、ホッとしたマミだった。
そんなマミは、しばらくは男性と付き合う気にはなれなかった。心の中では、
――別れた彼以上の人はいない――
と思っているのも事実で、
「じゃあ、どうして別れたりしたんだ?」
と言われるだろうが、マミとしては、
「どんなにいい人だと思っても、飽きを感じてしまうと、元の状態に戻すことはできないのよ。それにね、一度完成したと思っていることは、後は崩れていくしかないの。だから、ちょっとしたことでも何か疑問を感じると、そこから綻びが生まれて、その綻びは次第に大きくなっていくものなのよ」
と言いたかった。
「そんなものなんですかね?」
「ええ、恋愛なんて、加算法と減算法が共存しているのよ。最初気持ちが盛り上がっていく時は加算法で、一度恋が成就してしまうと、そこから先は減算法になるの。恋というのは、加算法の段階であり、成就すれば、それが愛になる。でも、愛は完成型なので、そこから先は崩壊しかないの。愛は破滅の始まりだって考えるのは、無理なことなのかしらね?」
マミは自分の気持ちの中で、誰とも分からぬ相手に話しかけ、自分一人で納得していた。マミは自分で納得したことでなければ信じないところがある。なかなか自分を納得させることというのは難しいものだが、そんなマミが自分を納得させるために用いる手法としては、この時のように、自分の中に架空の相手を作り出し、その相手との会話の中で、自分を納得させる手順を踏むことが多い。
――下手に誰かに話をすると、自分で納得できない方向に話を持って行かれることがあるので、注意しないといけないわ――
と考えていた。
その気持ちがあるので、人に対してはどうしても懐疑的な目から入ってしまう。
マミは自分が恋愛に憧れていた時期があったというだけで、男性に対して興味があったわけではない。それは今でも同じで、
――異性を求めるという感覚、私には分からないわ――
と思っていたところへ現れたのが、レナという女性の存在だった。
レナとホテルで一夜を共にした時、今まで感じたことのない快感を得られたような気がした。
――女性との恋愛なんて――