完全なる破壊
仕事が終わったマミは、レナがまだ仕事をしているのを見た。
「まだ、仕事が残っているの?」
普段であれば、自分の方が早く終わっても他の人のことを気にすることもなく、さっさと帰ってしまうのだが、その日はレナが気になって仕方がなかった。自分がよこしまな考えを抱いていることがバレバレなのも分かっていて、それを承知でレナに声をかけたのだった。
「ええ、でももうすぐ終わります」
レナは声をかけてくれたマミの方を振り向くことなく返事をしたので、普段なら、
――何、この娘。何様のつもレナのかしrふぁ?
と感じ、露骨に不快感をあらわにしていただろうに、その日は別に不快感を感じることはなかった。
――きっと恥ずかしいんだわ――
と感じたからだ。
ただ、レナの態度は普段と微塵も変わっていなかった。それなのに、マミはレナが今までとは違っていると思い込んでいたのだ。
――早く終わればいいのに――
と心待ちにしている自分がいた。
もちろん、この後の時間を、自分と一緒に過ごしてくれるという思いを抱いていて、その思いに一片の歪みもなかった。
少し待っていると、レナは仕事が終わったのか、すっくと立ち上がり、机の上を整理して、パソコンの電源をオフにしていた。身支度を整えてカバンを持つと、椅子を机の奥に入れ込んで、自分の席を離れた。
誰もがやっている終業時の行動なのだが、誰かのその時の行動を意識して見るなど初めてだった。
――私もあんな感じなのかしら?
思った以上に事務的な行動であり、そこに何かの意識が入っている必要などさらさらないことで、当然といえば当然の行動である。今さらながら何かを感じる必要もないというものだ。
なるべく見つからないように隠れて見ているつもりだったが、
――気づかれたかしら?
とも思った。
別に気づかれても相手がレナであれば別に関係ないと思っていた。
「レナちゃん、これから一緒に夕食でもどう?」
気軽にそう話しかけた。
すると、レナは表情を変えることもなく、
「ごめんなさい。今日はそんな気分じゃないの?」
と、けんもほろろだった。
まったくの予想外の反応に、どうしていいのか困っていたマミだった。それはまるで一緒に上った梯子で、先に相手に降りられてしまい、梯子をそのあと外されてしまったような感覚だ。
――置き去りにされた?
まさにそんな気持ちだった。
「えっ、どうして?」
混乱している頭の中を整理するなどできるはずもなく、ただうろたえながら聞いてみるしかなかった。
「どうしてって、今お返事した通りです」
「何か私が気に障ったことをしたの?」
マミはいきなり切り出した。本当なら、徐々に聞いていくべきところを聞いてしまったことがまずかったということを、その時すぐには気づかなかった。それだけ頭の中は混乱していたのだ。
「気に障ったといえば、そうですね……。さっき、川村先輩は、私が残りの仕事をしているところをずっと気にして見ておられたでしょう? しかも、私が仕事を終えて帰り支度をしているところまで。そんな時、私が帰ろうとしている姿を見て、明らかにワクワクしている様子が見てとれたんですよ。私はそれが嫌だと思ったんです。先輩はそんな気持ちはなかったんでしょうが、私にとっては気持ち悪い気分になってしまったことで、今日の気分を台無しにされた気がしたんです。申し訳ありませんが、今日はそういうことなので失礼させていただきます」
と言って、レナは一礼をして踵を返した。
その後ろ姿は明らかに凛々しいもので、本当であれば、その姿を自分だけに見せてほしいとさっきまで思っていた。いや、
――私だけのものだ――
とまで思っていたのだろう。
レナの本心がどこにあるのか分からないが、前日の行動は酔いに任せた一晩だけのアバンチュールだったのか、それとも、彼女のちょっとしたつまみ食いだったのか、はたまたいくつかの偶然が重なったことでの偶発的な出来事だったのか、その時のマミには分からなかった。
混乱は続いていた。しかし、このまま帰らないというわけにはいかない。マミも会社を出て最寄りの駅までくると、さっきまで感じていたレナへの気持ちがどんどん冷めてくるのを感じた。
――いったい何を求めていたんだろう?
普段から一人が気楽でいいと思っていたマミだったはずなのに、たった一晩の夢のような出来事に一喜一憂した今日一日が、急にバカバカしく思えてきたのだ。
いつものようにスーパーの惣菜屋の前に、気が付けば来ていた。
――思ったよりも明るいわ――
今日みたいな日は、むしろ暗い雰囲気の場所がいいと思っていた。こんな日は自虐的になることが自分のためになると思っていたからだった。
スーパーから自分の部屋までは、十五分ほどである。途中には公園があったり、川が流れていたりして、住宅街への入り口のようなところであった。
その日は公園を通り過ぎ、近道をするのだが、その日は公園を横切るようなことをせず、少し遠回りになるのが分かっていながら、公園に足を踏み入れることはなかった。そのため、
――普段は通らない道を通ってみよう――
と感じた。
その道というのは、公園に沿って歩いてきて、公園の角にあたる部分を道なりに直角に曲がるのだが、その日はそこを曲がることなく、公園を背にして、そのまま直進する道であった。
ほとんど通ったこともない道だったので、普段通る道よりも狭く感じられた。その理由は道の両側は大きな屋敷になっていて、その境目がコンクリートで覆われた塀になっていたからだ。大きな屋敷であれば、昔ながらの木塀ではないかと思えたが、そこはなぜかコンクリートの壁だった。
――まるで刑務所か何かのようだわ――
と、両側から迫ってくる壁に、圧迫を感じることで、道が狭く感じられたに違いない。
――雨でも降ってくるのかしら?
埃の匂いを感じた。
この匂いがした時は、いつも雨が降ってくる前兆であり、冬でも生暖かい空気が風に吹かれて身体に纏わりついてくるような気がしていたのだ。
その日は、さらに異様な匂いを感じた。
――何なのだろう?
生暖かさとは少し違ったその匂いは、悪臭であることに違いなかったのだが、かつて感じたことのある匂いであることに違いはなかった。
あれは、高校生の頃だったような気がしたのだが、高校生の頃だったとすれば、思い出した感覚としては、もっと最近のように思えてきたから不思議だった。
あの日は確か、雨の予報のない時だった。夏だったか梅雨の時期だったのか、ジメジメしていたのは間違いなかったように思う。ただ、蒸し暑かったことと、急に身体に照射されたビームのように照り付ける日差しを感じたのを覚えていることから、天候が急に変化した時だったように思えた。
それまで降っていた雨が止んで、差し込んできた日差しが半端ではないほど強かったのだろう。蒸し暑さをいきなり通り越してジリジリした暑さが襲ってきたのだから、蒸し暑さの余韻とジリジリした暑さが交差した感覚が、自分の中に残っていたのではないだろうか。