完全なる破壊
カクテルと料理を頼み、少し佇んでいると、カウンターの奥に本が置いてあるのが見えた。
本の内容は心理学の本であり、思わず手に取ってみた。
「マスターこの本、見てもいいですか?」
というと、
「ええ、かまいませんよ。心理学に興味がおありかな?」
とマスターが言った。
「ええ、一応私も学者のタマゴなので、興味はあります。心理学とは関係のない研究ですけどね」
と言って苦笑いをしたが、マスターは相変わらずの無表情だった。
その表情を見ていると、ムッとしてしまう自分を感じる。だが、なぜか嫌ではなかったのだ。
「どんな研究なんですか?」
と聞かれたので、
「建築学です。鉄筋コンクリートに代わる次世代の研究をしています」
というと、
「なるほど、それはなかなかですね。大変な研究だと思いますが、頑張ってください」
マスターのセリフは、言葉をそのまま解釈すると、完全な他人事のように聞こえるだけだが、その内容の曖昧さに、小林は、
――言葉を額面通り受け止めていいんだろうか?
と考えてみた。
彼の躁鬱なところは疑り深いところを秘めていて、ついつい裏を読み取ろうとしてしまうところがある。
――だから、それが躁鬱を生むんだ――
と考えられなくもなく、そのために多くなっている気苦労なのだが、本人には自覚があまりなかった。
「実は私、脱サラしてこの店をやっているんですが、この店にはサラリーマンかOLしか常連さんになってくれる人はいないんです。元々、会社員以外がこの店に来ることがないのか、それとも会社員しか常連になってくれないのかの、どちらかなんですよ」
作っていた料理ができて、カウンターに並べる時、マスターはそういった。
さっきまであんなに他人事のように見えていたマスターが、どうした風の吹き回しなのだろう?
「類は友を呼ぶという言葉もありますし、マスターの雰囲気から出るオーラが、会社員を引き付けるんじゃないんですか?」
というと、
「そうなんでしょうか? 私は会社員をしていた時代、サラリーマンが嫌で嫌で仕方がなかったんです。元々、人から命令されるのが好きではなく、上司からの指示もあまり好きではありませんでした。明らかに間違っていると思っていることで、上司の命令であればしたがわなければいけないですよね。確かにその責任は上司にあるのだから、自業自得なのかも知れませんが、部下が間違った道を正そうとしているのに、上下関係の方が絶対だなんて、私には理不尽にしか思えないんです」
マスターが脱サラした理由のすべてが、今の言葉だけだとは思えないが、少なくともこの話がマスターの本音であることに間違いはない。
「我々、研究者の世界では、そこまでひどいことはないですね。もちろん、研究所によって差はあるんでしょうが、私の勤務している研究所では、教授の研究を皆で助けているというのはもちろんのこと、助手であったり、他の研究員の発想から、皆でその発想を証明しようとするものです。それぞれに個性もあれば、研究員としての実力もあるのだから、それは尊重されるべきだと思いますよ」
と小林がいうと、
「私もそんなところで働いてみたかったですね」
という言葉に、
「でも、きっと我々の責任は、民間企業よりもはるかに大きなものだと思っています。少なくとも国から多額の補助金が出ていますから、半分は税金を使っているようなものですからね。その分、精神的には大きなプレッシャーになっていますよ」
というと、
「なるほど、確かにそうでしょうね。だから逆にそのプレッシャーを皆が共有しているという意識を持つことで、上下関係よりも、個人尊重の意識になるんでしょうね」
というマスターの話を聞いて、
「そんな単純なものではないかも知れませんよ。確かに個人尊重という意識は全体で共有していると思います。でも、研究員の上下関係というのは、サラリーマンのそれよりも本当は厳しいんです。教授の発想はある意味絶対で、だからこそ、皆で証明しようということになるんです。もちろん、間違っているかも知れません。でも、教授の方も、自分が絶対的な立場でなければいけないという思いがあるので、よほどの自信がなければ研究を公表しようとは思わないんですよ。そうでなければ、研究員もしっかりとした証明ができないと思います。何しろ最終的には学会で報告して、最後には世間に公表することになるんですから、本当に責任は重大です」
「会社員の上司の責任なんかと、比べものにならないというわけですね」
「優劣の問題というよりも、次元が違うというべきか、違う土俵のものを比較するというのは、最初から無理があるということを言っているんですよ」
「そうですか。私もサラリーマンを辞める時は、結構いろいろありましたからね、精神的には複雑で、負のオーラが充満していたかも知れません。何から手を付けていいのかわからなくなってしまい、自分がどこにいるのか、急に分からなくなったり、何を考えていたのかという寸前のことすら忘れてしまうくらいでしたからね」
「分かりますよ。いろいろ気苦労や苦痛が重なると、ふと自分をどう納得させればいいのか分からなくなることがありますからね。まるで夢を見ているかのような錯覚に陥り、『夢なら早く覚めてほしい』と思うのかも知れません」
マスターは自分がサラリーマンを辞めたことだけではなく、他の理由も話したいのかも知れない。
小林がそう思っていると、
「私は、会社の上下関係で悩んでいた時、実はある女性と婚約していたんです。その人は私が悩んでいることも分かってくれていて、一緒に悩んでくれていたようなんです」
と、少しずつ話をしてくれ始めた。
「それはそれは」
相槌ともいえない言葉を返した小林だったが、マスターのような人が相手であれば、これくらいの方がいいのかも知れない。
「その婚約者なんですが、私が会社を辞めてしまったその時、彼女の方から婚約を解消しようと言ってきたんです。私は本当に青天の霹靂でした」
「会社を辞めたタイミングでですか、それはきつかったですよね。それまで彼女に会社を辞めたいなどと相談しなかったんですか?」
と、小林は当然のごとくの質問をした。
「ええ、もちろんしましたよ。彼女の方でも、『そんなひどい会社なら、辞めてしまえばいいのよ。失業中は私が食べさせてあげる』とまで言ってくれていたんです。私もさすがに辞める決心をした時は、それなりに蓄えがあったので、彼女に食べさせてもらおうなどとは思っていませんでしたが、その思いは嬉しかったんです。それで『君の気持だけで十分だよ』と答えたんですけどね」
というマスターに、
「マスターは計算高い人なんでしょうね。サラリーマンを辞めて婚約を解消されてもこのお店ができるくらいの蓄えを残していたということでしょうからね」
と小林は言ったが、それと同時に
――なるほど、時折見せる他人事のよういn見える態度は、ひょっとするとまだ未練のようなものがあり、心ここに非ずと言ったところなのかも知れないな――
と思ったのだった。