短編集29(過去作品)
妻は結婚しても変わらず私を慕ってくれている。時には叱咤激励もあり、私には出来すぎた女房かも知れない。だが、人間の欲というのが果てしないものであると思い知らされたのも結婚してからであり、満足度百パーセントだと思っていたパーセンテージが、年月が経つにつれ、次第に下がってくる。
それと同時に忘れていたはずの犬の表情を思い出すようになったのだ。
何しろ、祖母の死という事実よりも目の前で死んだ犬の方のショックが大きかったくらいである。確かに祖母の死に立ち会ったわけではないので、本当の他人事のように思えるのだが、いまだに犬の死が他人事のように感じるのは、犬の死の瞬間に、ショックで固まってしまった自分が、表から冷静に見ているもう一人の自分の存在を「他人事」として感じているのかも知れない。
そう考えれば、他人事と感じたことも納得がいく。
――もう一人の自分の存在――
妻と一緒にいる時に感じることはなかった。自分の妻を、私は自分として見つめ続けてきた。夫として男として、だからこそ、妻も献身的に尽くしてくれているに違いない。
では喫茶店で知り合った女性はどうだろう?
彼女と知り合ったことは、まるで夢のようだ。一度だけ身体を重ねたが、それからしばらく会うこともなかった。
――もし、また出会ったらどうしよう――
と迷いを抱きながらそれでも出会った喫茶店に足しげく通っていたのは、密かな期待があったからだろう。彼女を見かけないことにホッとしながら寂しさを感じている。感じているのは間違いなく私である。その瞬間にもう一人の自分の存在を意識していない。現われる余地もないのだ。
だが、それは後から考えるからだろう。
喫茶店の中にいる時に感じるのは、期待と不安を交互に感じ、
――来たらどうしよう――
と不安の方が大きいに違いない。だが、結局現われないと、そこから先は、安心感が私を支配している。もし、彼女が現われて身体を重ねてしまうと、事を終えてからの倦怠感の中で襲ってくる後悔が大きいことだろう。罪悪感というやつだ。
元々躁鬱症の気のある私は、罪悪感がそのまま鬱状態への引き金になることを極度に恐れている。もう一人の自分の存在を感じるのもそんな時かも知れない。躁鬱症に陥る時は自分でも分かるもので、陥っていく自分を客観的に見ている自分の存在に気付いているからだと思っている。
――何とも言えない気持ち悪さ――
鬱状態に陥る時に感じることで、同じものを見ていてもまわりが全体的に小さく、そして鮮やかに見えるから不思議だ。まるで同じ景色を夜に見たような感じがすろ。昼の世界とはまったく違った光景を見せてくれる夜の世界。それを感じ始めることが、鬱状態への入り口でもあった。
私は、他人に対しての嫉妬心が他の人に比べれば強いと思っている。例えば表彰されるのを見たりするのが耐えられないタイプで、同級生が表彰などされると、まわりが拍手して一緒に喜んでいる姿が信じられない。
――なぜ人の幸せをあそこまで一緒になって喜べるんだ――
と感じる。きっと表彰されている人の気持ちを自分に照らし合わせて見てしまうからだと思っているが、ついつい相手の気持ちの中に入り込もうとするところが自分の中にあるのかも知れない。だからこそ、他人が喜んだり悲しんだりすることを思い浮かべ、分かるわけもないのに、その気持ちになりきろうとする……。きっとそこにもう一人の自分が介在しているように思えてならないのだ。
もう一人の自分はあくまでも自分の影である。目立つことはないが、光の部分の自分が理解不可能だったり、迷いを生じた時に出てきて、客観的に見るだけなのだ。それ以上のことをしようとしないため、存在感は大きいのだが、すぐに忘れてしまう。そんな不思議な存在なのだ。
喫茶店の指定席で車の流れを見ている。漠然と見ていると、交差する光が次第に大きくなり、ぼやけてくるのだ。目を細めて見ていると感じることで、まるで視力が落ち込んでしまったかのようである。
時々何も考えずに見ていると、時間の経過を感じることなく過ぎていく。自分の世界に入り込むと、そこから先は感覚が麻痺してくるのか、時間の感覚を忘れてしまう。ゆっくりと眺めているつもりでも確実に太陽は傾いてきていて、西日が入り込んでくる喫茶店では、目を覆いたくなるが、我慢しながら表を見ていると車を追いかけるようにできている影を見つめるのが日課になっていた。
影というものを意識し始めたのは、喫茶店で表を漠然と見るようになってからではない。
幼少の頃から影に対しては特別な思いがあった。
あれは、学校から帰ってきて遊びに出かける時のことだった。帰り道に木造平屋建ての横丁を抜けて帰るのだが、そこは、まだ舗装もされていないようなところでのことである。
学校からの帰り道というと、西日が眩しく、しかも舗装もされていない道なので、砂埃もひどい。
車の通りは少ないが、それでも通った時の砂埃は、視界が完全に遮られる。しかし、光の線はくっきりとしていて、細かな砂塵がくっきりと見えることもあった。
――何となく綺麗だな――
汚いとは思いながらも綺麗に見えてしまうアンバランスがとても不思議な世界を作り出している。
――幻想的な世界――
そこまで感じていたかどうかは、今となっては分からないが、今見たらきっとそう感じるだろう。
大人になるまでに何度も思い出した光景。夢で見たこともあったかも知れない。幻想的な世界という言葉を聞いて思い出すのが、細かな砂塵の沸き立つ風景である。
今ではほとんど見ることのなくなった舗装されていない道に、木造平屋建ての家。夢の中ではいつも探しているように思う。目を瞑れば浮かんでくる光景なのは、きっと夢の中ではくっきりと思い出せるからに違いない。
西日の当たる喫茶店で、車や人にできた影を見つめているのは、影というものを追いかけようとしているイメージがあるからだ。
――角を曲がれば見えてくる――
誰かが目の前の角を曲がった。長い影がその残像を残している。私は急いで追いかける。角を曲がるであろう人が誰なのか想像もつかないが、待ってくれているように思うのは錯覚であった。
急いで追いかけて曲がった角のその先に、誰もいないのは分かりきっている。それは曲がった瞬間に、
――最初から分かっているんだ――
と思うからに違いない。きっとそうであろうし、淡い期待を寄せて追いかけるのか、それとも確認のために追いかけるのかも分からない。
角を曲がって歩いていると、その先には予想もしなかった世界が待っている。それがきっと最初に見た夢の感想だろう。しかし何度となく同じような夢を見ることで、曲がった先に何があるか、すでに予想できるものなのだ。
――またこの光景――
目の前には、また角があり、そこを曲がることになるであろう。そう、また同じところに出てしまったのだ。
――袋小路――
逃れることのできないその一角は、まるでいつも見ている夢のようだ。何度も夢に出てきては、同じところで目が覚める。
作品名:短編集29(過去作品) 作家名:森本晃次