短編集29(過去作品)
暗闇に浮かび上がる顔があれほど暗く、そして不気味に見えるとは、思ってもみなかった。その視線の先に自分がいるのは明白で、ドキッとして思わず窓ガラスから視線を逸らした。
すると逸らした視線のその先に、実際にこちらを見ている彼女と目が会ったではないか。彼女も私が逸らした視線に合わせるかのように、こちらに視線を向けたのだ。まさしく電光石火、私の気持ちを見抜いてでもいるかのように思えてならない。
しかもこちらを見ている顔に何の曇りもなく、ニコヤカに微笑んでいる。ガラスの反射とこれほど違うものだとは思ってもみなかった。
一瞬時間が止まってしまったが、止まった時間の封印を解いたのは彼女だった。
「初めまして、こちらにはよく来られるのですか?」
と話しかけられ、キョトンとしていた私は我に返った。
「ええ、来る時はいつもこの時間で、この席なんですよ。あなたは?」
「私も同じですね。いつもこの時間のこの場所。ということは、今までお互いに違う日に来ていたのかしらね?」
口に手を持っていって上品な笑い方を見せる彼女だが、髪をポニーテールにして、デニムのスカートを穿いた活発な雰囲気とのギャップを感じていた。
「そうかも知れないね。僕はここを自分の指定席だと思っていたからね」
「私も同じ、私が来る時はそこの席には、誰もいないもの」
「僕が来る時にも、そこは誰もいないよ」
お互いにお互いの席を指差している。女性と知り合うきっかけとは、案外こんな些細なことなのかも知れない。
結婚してから一年半が過ぎた半年前のこと、ひょんなきっかけで知り合った女性を意識するなど、その時の自分が今でも信じられない。きっと、その日が偶然で、今日が終わってしまうと、もう二度と出会うことがないような気がしたからに違いない。
「時間の過ぎるのが、これほど寂しいと思ったことはないよ」
自分としては何気なく呟いたつもりだった。
「ええ、そうね、私もこんな気持ちになったのは久しぶりだわ」
上目遣いに見つめる瞳に私の姿があった。透き通るような瞳の奥が光ったような気がしたのは気のせいだろうか?
喫茶店で飲むコーヒーで感覚が麻痺してしまうなど、今までにはなかった。他愛もない会話だったはずだ。お互いの仕事のこと、家庭のこと、自分の性格のこと、たったあれだけの時間なのに、よくそこまで話すことができたと思うほど、会話は充実していた。その間も無意識に時計を気にしていて、三十分は経っているだろうと思って見た時に、まだ十分しか経っていなかったのが、どれほど嬉しかったことか。弾む会話のテンポのよさも伴って、私はさらにウキウキした気分になっていた。
饒舌になってくると、喉がカラカラに渇いてきて、舌が廻らなくなってくる。まさしく呂律が廻らない状態で、指先が乾燥してくるのか、痺れを感じてくる。
眠くないにもかかわらず、重くなってくる瞼を感じながら、ゆっくりと目を開けると、眩しさを感じる。きっと重たい瞼から覗く世界は、暗かったのだろう。最初に彼女を見た時、窓ガラスの暗さを思わせる。その先に見える彼女の表情を思い出しては、ハッとして重い瞼を押し開ける。時間が長く感じるのは、暗くなった時間を長く感じているかも知れないと思うのも無理のないことだ。
アルコールも入っていないのに、すでに泥酔したかのような気分に、陥ってしまっていた。元々アルコールには弱く、コップ一杯のビールでも泥酔したようになる私は、友達との会話が白熱した時でも、たまに酔っ払った気分になる時がある。自分の話に酔ってしまうこともあるようで、後から聞かされても覚えていないことが多かった。その日のように女性を目の前にして饒舌になるなどなかった私は、自分に酔っていたのかも知れない。
気がつけば、ベッドの中にいて、身体の左側に温かさを感じていた。それが人肌であることはずっと分かっていたが、次第にその感覚が麻痺してきたのは、自分の身体に馴染んできて、違和感を感じなくなったからだろう。
――こんな心地よさをずっと夢見ていたのかも知れない――
妻と抱き合っていて感じたことのない感覚で、初めてには違いないのだが、ごく最近も味わったような心地よさ、感じていることとの辻褄が合わないのを分かっていながら、抱きしめている手に力を込める。
妻と事を終えて抱き合っている時は、暖かさを感じるというよりも、熱さを感じる。汗を掻いてしまっていて、起きた時には気持ち悪さが残っているのだ。
――これが倦怠感というものか――
と思うほどに身体が重たく、起こそうとすると、微妙な頭痛を伴ったりする。夫婦生活がマンネリ化してきた証拠かも知れないと感じることが、新鮮さを求める一番のきっかけになってしまうことを、無意識ながら感じていたのだろう。
――このまま、ずっと寝ていたい――
と感じながらも、横で寝息を立てている女を見ると、初めて妻を抱いた時の新鮮さを思い出す。
部屋を暗くすると白く光っているように見えるほど、どこまでも白い肌、水も弾いてしまうのではと思えるほどのきめ細かさ、敏感な部分を刺激すると、すぐに反応し、身体の奥から湧き出すような暖かさは、いつまでも続く私への愛のように思えてならなかった。
次第に相手のどこが感じるかを分かってくると、執拗なまでの攻撃に信じられないような興奮を与えることができる。感じている反応を見ながら、
――この女は、もう私のものなのだ――
と、思うことが男としての自尊心を奮い立たせる。疲れている体であっても、いつまでも女を抱いていたいと思えるほど、時間の感覚も麻痺していて、身体の奥から湧き出してくる興奮は、いつまでも終わることのないような錯覚を覚えていた。
それが錯覚であると分かるのは男の性である。最高潮に達した興奮も、一旦表に出してしまうと、後に残るのは倦怠感と疲れだけである。しかし、妻の場合にそれはなかった。一瞬はそれを感じ、身体全体が痺れたように麻痺していたが、すぐに相手の身体の暖かさを思い出してくると、再び元気になってくる。
それが妻との最初の夜だった。
付き合って結婚までも時間がかかったが、付き合って初めて身体を重ねるまでにも、少し時間が掛かった。
「いいんだね?」
「ええ、あなただから……」
いつも冷静沈着で、顔を赤らめるなど想像したこともない真知子の顔が、いつになく真っ赤であった。林檎のような艶のある肌、思わず手で触ってみると、弾けそうなのにはビックリしてしまった。
何よりも待ちわびていたわりに、感動が少ないのではないかと思えるほどだったのが、最初は不思議だった。まるで他人事のように感じたのだが、その感覚も初めてではなかった。
小学生の頃、飼っていた犬が死んだ時のことが思い出されてならない。
買ってきて育てた犬ではなく、道を歩いていて私の後ろをずっとついてくる野良犬、動物を可愛いと思ったことなどなかった私なのに、どうしてついてくるのか分からなかった。
「シッ、シッ」
作品名:短編集29(過去作品) 作家名:森本晃次