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短編集29(過去作品)

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 考え事をしていると、見ているつもりでも目に焼きついていない。たった今のことなのに、覚えているつもりが覚えていないのだ。
 数日前と記憶が錯綜しているのだろう。
 確か四日くらい前に来た時は、それほど人が多くなかったように思う。それにしてもたった今のことと、四日前のことが錯綜するくらいになるまで、一体何を考えていたのだろう?
――仕事のことだろうか? それとも女性のこと?
 私は結婚して三年目に入ろうとしていた。妻は実に大人しく、こちらから話しかけなければ、まったく向こうから話すようなタイプの女性ではない。ただ従順で、こちらがセッティングしたことに逆らうことなどありえないような女性である。
「結婚しよう」
「ええ」
 プロポーズもたったこれだけ。三年も付き合っていて、結婚の「け」の字も口からは出てこなかった。考えていないわけはない。時々、電車の中での中吊り広告にあるブライダル記事を見上げていることがあった。きっと無意識なのだろう。無表情を装っているが、明らかにうっとりとした目をしていた。そんな姿を見ていても私には彼女との結婚に踏み切るまでに時間が掛かったのだ。
――彼女以外にもっと素敵な女性が現われるのでは?
 これが本音だったかも知れない。あまりモテるという気がしなかった私は、友達の紹介で付き合い始めた彼女をいとおしく感じていた。
――私には大人しい女性が似合うんだ――
 と思い込んでいたからで、それ以外を考えたことがなかったのだ。しかし、女性と付き合うことで女性というものの奥の深さを感じてくると、他の女性を知りたいと思うのは、いけないことだろうか? 結婚してしまえば、そうも行かなくなるだろうから、今のうちに……。と考えてしまうのは欲が果てしないものだということを示している。
 だが、一方で、
――好きになった女性は裏切れない――
 と思っている自分がいるのも事実で、他の女性を気にすれば気にするほど彼女への自分の気持ちが本物であることを裏付ける結果となった。
――私は、この人と結婚するんだろうな――
 と考えてしまうと、もうそれ以外の結婚相手など眼中になくなってしまった。
 結局、結婚するまで可愛いと思った人はいたが、浮気をすることもなく来た。
「真知子さん、結婚してください」
「嬉しいわ、孝蔵さん」
 プロポーズも、気の利いた言葉が思い浮かぶわけでもなく、ストレートだった。浮気することもなくきた私らしいではないか。彼女もその言葉を待っていたのはみえみえなのだが、それを表に出そうとせず、なるべく平静を装っていた。
 プロポーズの場所も確か喫茶店だったように思う。当時二人でよく行っていた喫茶店、窓際の席で、走りすぎる車の群れを漠然と見ていた時だった。いきなり正面を向いて真顔になって見つめられた時の彼女の目も、真剣だった。きっと、私が一大決心の元、その日に会う約束をしていたことを、ウスウス気付いていたのだろう。
 喫茶店に来て、窓際に座って表を見ているとその時のことを思い出す。もちろん、まったく違う光景なのだが、人生の中で一番幸せな至高の時を思い出したいと思うのは、今の私には無理のないことかも知れない。今の私は幸せといえば幸せなのだろうが、自分自身ではそうは感じていない。いつも何かに怯えていて、いろいろ考えた上で結婚を決めた時を思い出すと、その時だけでもまったく迷いがなかったことに気付く。不安をすべて払拭した上での決断だったことが、今から思えば一番の幸せな時期だったように思えるのだ。
 そんなことを感じながら、駅からロータリーへと流れる人の群れを漠然と眺めていた。
「あなたも思い切ったことをするのね。とてもそんな風には見えないわ」
 入ってきた時はそれほど客がいるとは思えなかったが、いつの間にか人も増えてきていて、話し声が錯綜し、それなりに賑やかな感じだった。表を見ている時はあまり耳に入ってこないのだが、その言葉だけがなぜか耳についてしまった。
「そうかしら? 私だけじゃないでしょう」
 女性二人の会話であった。後から答えた女性の声には少し棘を感じ、開き直りのようなものがあるようだ。
 二人の会話に気がついてみると、まわりの喧騒とした雰囲気も少しずつ打ち消されていった。私は気にしていないかのように表を見ながら聞き耳を立てていると、緊張しているのか、自分の心臓の鼓動が聞こえてくるようだった。
「あなたにとって幸せって何なの? そんなことばかりしていたら、絶対に不幸になるわよ」
「だって仕方がないじゃない。好きになってしまったんですから」
 あくまで相手の話に納得したり、譲歩を見せようとしないが、言葉尻だけを聞いていれば間違いではない。
「好きになったって言うけど、あなたを見ていると遊びにしか見えないわ。今すぐに別れて頂戴」
「いいえ、別れませんわ。私はあの人が好きなんですし、それに、あの人が何ていうかしら?」
 立場は彼女の方が強そうだ。
 ここまで来ると、さすがに私の視線は二人を追った。そして私が想像したとおり、視線の先に写ったもの、それはお互いに一触即発を呈した女性が睨みあっている姿であった。表情はお互いに一歩も引く雰囲気ではない。会話のどちらか一方がそんな表情をしているのなら、一発で話は収まるに違いないと思えるほどの険しい表情で睨みあっている。
 どうやら、不倫をしている相手の奥さんと、実際に不倫相手の女性との直接交渉のようだ。テレビドラマでも緊張するシーンなのに、こんな艶めかしいシーンを目の当たりにしてしまうと、嫌でもまわりの空気の違いを感じてしまう。
 不倫相手の言葉を最後に、二人の間で無言の睨みあいが続いた。完全にまわりの空気は固まってしまい。他の席で大声で笑っている女子高生たちの姿が、幻影のように見えてくる。
 どうやら固まってしまった空気の中に、私も入り込んでしまったようだ。
――息を呑む瞬間――
 心臓の鼓動が一つではなくなった。目の前の二人の女性の心臓の鼓動まで憩えて繰るように感じるから不思議である。不思議なことに三人とも同じリズムの鼓動である。だが、錯覚だと思えない何かを感じているのも事実だった。
 こんな光景を見るのは初めてではないように感じたのは、胸の鼓動に覚えがあったからだ。それもごく最近、自分の中で気持ちの整理がつけられない人たちの話だったように思う。
 人の話を他人事として聞くのは、私にはできないらしい。やはりいろいろ考える性格が災いするのか、勝手に頭の中で想像してしまうのだ。特に不倫の話などは、聞きたくなくとも耳について離れない。不倫とまで言っていいのか分からないが、私には妻の他に好きになった人がいる。
 その女性と知り合ったのは仕事帰りだった。いつものように喫茶店に寄り、コーヒーを飲んでいて、偶然隣合わせただけだった。
 しかしなぜかその日は誰かと知り合うような気がしてならなかった。胸の高鳴りともいうべきウキウキした気分が、喫茶店への道のりを、足取りも軽やかにさせた。夜の帳も下りた時間帯で、いつもの席に座って表を見ていた窓ガラスに、浮かび上がった顔が彼女だったのだ。
作品名:短編集29(過去作品) 作家名:森本晃次