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短編集28(過去作品)

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 最初の原因はなんだったのだろう。今から考えれば、派手好きな泰子にウンザリきはじめたのが原因だったような気がする。近寄っただけで香水の香りがプンプンとしている。そんな女性が私のそばにやってくるのだ。好きだった時はいいのだが、一旦嫌になると、溜まったものではない。神経質な性格が確実に私の神経を蝕んでいき、後戻りできないところまで来させてしまっていた。
 そうなると、私は自分の中でできた不満を泰子にぶつけるだけになるのだ。
――我慢をさせられるのは彼女のせい――
 とばかりに、泰子への不満が表に向って爆発する。もう、私の優位は決定的だ。
 いくら泰子が哀願しようとも、私は自分の信念を曲げることはしない。神経質で強情な私をさらに思い知る。泰子の方も、きっとこの時になって私への本当の思いを感じるのだろう。別れを必死で拒んでいた。
――ギリギリのところまで我慢するが、我慢ができなくなったら、後は……
 これが女性の性格だと言った友達がいた。まさしく私はその性格を泰子に対して表わしたのであって、別れを決意した瞬間から、私は冷静な人間になっていた。きっと今までで一番冷静になれたに違いない。何もかもが見えていたような気がしたのも事実で、自分の短所と長所を思い知ったのもその時だっただろう。
――短所と長所は紙一重――
 二重人格な自分の性格、しかし、その中で冷静な自分が潜んでいること、女性っぽい性格の中でも無意識な部分が多いことなど、自分を冷静に分析もできた。
 そんな中で、どうしても分からないところもあった。どこかポッカリと穴が空いているように感じるのだ。それが自分の性格の中のことなのか、今まで生きてきた中で、どこかの時代にポッカリと穴の空いた瞬間があるのか、自分でも分からない。分からないだけに気持ち悪い。冷静になっていただけに見えてきたその穴が、私にとって大きいのか小さいのか分からないのだ。
――きっとどこかにトラウマがあるんだ――
 トラウマがなければ、泰子と別れる気にならなかったように感じている。すると私のトラウマとは神経質な性格から来ているものなのだろうか?
 私は隠し事をするのが嫌いなタイプの人間だ。感じたことはすぐに相手に話をするし、隠そうとしてもすぐに顔に出てしまう。きっと私の長所だと思っていたのだが、私にとって短所でもあった。
「お前の考えていることは、すぐに分かるさ」
 友達に何度となく言われたが、その言葉は皮肉交じりである。
 泰子が私のことをすべて見切っているように感じていたのも無理のないことだったのだろう。
 しかし隠し事とは一体何なのだ?
 相手が知りたくないことを教えないこと? それならば相手に対して気を遣っていることになるのではないか。本当にその人のためになるのであれば……。しかし私はそれが許せない。きっと隠すことがその人のためにならないという意識があるからに違いない。
 子供の頃に育った街。時々、昔よく遊んだところを歩いてみることがある。河原に座ってみたり、空き地を訪ねてみたりしてみるが、空き地にはすでに家が立ち並んでいて、子供の頃の面影はほとんど残っていない。しかし、河原から見る工場の煙突は相変わらずで、黒い煙を吐き出している。黒い煙が吐き出されるのを見ていると、やっちんを思い出してしまうのも仕方ないことである。
――今、どうしているんだろう――
 と考えなくもないが、それを知ったところで、どうなるものでもない。昔の思い出はあくまで昔のこと、会ってみたところで、子供のやっちんがそこにいるわけではない。
 工場の方から聞こえる金属がぶつかるような「カツンカツン」という音が、断続的に聞こえてくる。すると、シンナーのような匂いを思い出すのは条件反射のようなもので、私にとって、思い出が現実になるのではないかと思わせる一瞬であった。しかし、そんなことがあろうはずもない。私をそんな思いに駆り立てるもの、それは金属音によって引き起こされたシンナーのような匂いである。お腹が減ってきたような錯覚に陥るが、シンナーの匂いが食欲を鈍らせる。今から思えばうまくできていた。子供の頃に漠然と思っていたことを今もなお感じている。
 私の成長とともに、風景が移り変わっている。工場を思い出していると、育った田舎に思いを馳せていた。
 河原に座って工場の音を聞きながら目を閉じていると、そのうちに工場の喧騒とした音がフェードアウトされてくる。
――十分、子供の頃のことを思い出したから――
 とも思ったが、記憶というものは遠ければ遠いほど、あまり思い出としては残っていない。しかし、感じる時間は長いもので、田舎で過ごした一年があっという間だったようにさえ感じられる。実に不思議な感覚だ。
 田舎での私もあまり思い出を抱いたようには思えない。子供の頃から、とにかく何かを考えていた性格だったので、その時に考えていたことを思い出すことができれば、光景も浮かんでくるはずである。きっと算数の公式のような数列を思い浮かべることが多かったと思うのだが、感情がなかったわけではない。数列が思い浮かべば感情も思い出され、どんな気持ちでまわりを見ていたかも思い出せるはずなのだ。
 私は忘れっぽい方である。
「お前、もう忘れちゃったのか?」
「すまない。聞けば思い出すんだろうが、思い出してもいつのことだったか分からない時があるんだ」
 何度そう言って友達に話したことだろう。
――色を思い出せば、結構思い出せるかも知れない――
 と感じていた。
 田舎での思い出は、なぜか赤い色である。夕焼けの赤を思い出すこともあるが、燃えさかる真っ赤な炎のようだ。黄色掛かった炎が真っ赤に変わる時、私は恐怖におののくような気がする。
 私の母は、私が大学卒業が近づいてくるとまもなく死んだ。病気だったのだが、最後の表情は怖くて見ることができなかったように思う。虚空を見つめていて、その先にあるものが、父だったように思えて仕方がない。
――真っ赤な炎は、きっと母が見ていたに違いない――
 と感じるのだが、父が母にしてきた暴力を考えると、憎しみに満ちた母の顔を忘れることができない。
 母が死ぬ数ヶ月前に父は行方不明となった。母が捜索願を出したのだが、私は父が永遠に見つかることはないだろうと思っていたのだ。胸騒ぎのようなものを感じながら、目を瞑れば思い出す小さい頃に河原から見た工場の煙突。
――生臭さも感じていたのではないだろうか――
 金属の匂いやシンナーの匂いに混じり、時々、
「これは何の匂いだ?」
 と思うことがあった。友達は、
「気持ち悪いなぁ。まるで動物を焼いているような匂いだ」
 と半分冗談のように話していたことを今さらながらに思い出す。一旦思い出してしまうと、それ以外に考えられなくなってしまう。
 田舎で焼却炉から出てきた不思議な色を思い出していた。時々見ていたように感じていたが、ある日の一瞬だったのではないかという思いが頭をよぎる。
――もし、あれが人間だったら――
 恐ろしい想像だが、父がいなくなった日を思い出すと、それ以上考えるのが恐ろしくなる。
――母が何かを知っているんだ――
作品名:短編集28(過去作品) 作家名:森本晃次