短編集28(過去作品)
吸い込まれる煙も黒煙などではなく、普通に白い煙だ。夕焼けが焦がす空には何ら影響はなく、ただ、吸い込まれていくだけである。都会の煙突から吐き出される黒煙は、明らかに空を染めるだけの力を持っている。
私は何度となく、焼却炉のそばまで行って、下から煙を眺めたことだろう。それほど都会で感じた黒煙がハッキリ意識として残っているからであろうが、何度下から見上げても、都会の黒煙との違いを漠然としか感じることができなかった。
しかし、下から見上げることで何かを思い出そうとしていたようにも感じる。自分の中のトラウマとして残っているようにも思い、意識的に忘れているような気がする。しかし直接自分に関係あることではないことから、忘れていることを思い出そうと煙突の下に来ても、まるで、都会でも煙突の下から覗いたことがあるような気持ちになるから不思議だった。
――それにしても、怖いくらい匂いがしない――
ごみ焼却炉といえば、さすがに都会の工場などのようなシンナーの強烈な臭いがあるわけではないが、それでも、ゴミを焼くのだから、それなりに悪臭が漂っていてもいいはずである。
――いつも風邪を引いている時に、煙突の下に来るわけではないのに――
むしろ、鼻の通りのいい時に、臭いを嗅いでみたいと思って来るのであって、それなのに意に反して臭ってこない。それだけ見上げる煙突に対して、臭いというものに鈍感になっているからではないのだろうか?
だが、煙突から離れようとした瞬間に、かすがながら匂いを感じていたように思う。それはものが焼ける匂いとは程遠い、果物のような匂い。少なくともものが焼ける時の乾いた匂いではなく、水分を含んだ甘い香りに近いものがあるのだ。
――錯覚だろうか――
錯覚といえば錯覚と感じられないこともない。確かに近くにはいちじくや、枇杷が生っていたりする。煙突から離れる時に見える果実に目が行くことで、無意識に匂いを感じていたのだろうか?
果実には目が行く方である。意識していつも見ようなどと思っているわけではなく、煙突から離れようと踵を返したら、視線の先にはいつも果実がある。それがいつものパターンであった。
いちじくや、枇杷に視線が行くのは無意識ではあるが、必然性を感じる。
そういえば、小学校の頃によく遊んだ空き地、そこには木があった。そこにはいちじくや、枇杷が生っていて、遊びの途中で、お腹が減れば友達と一緒に採って食べていた。しかも遊びの途中で食べる果実は美味しかった。友達と一緒に食べるからなのか、表で食べるからなのか、売っている果物を食べるのとは、少し違っていたのだ。いつまでも口の中に味が残っていて、とろけるまでに時間が掛かった。都会の思い出の中にあるシンナーや黒煙とともに、果実の味が残っていることも間違いではない。
しかし私は明らかに黒煙、シンナーの臭いとは分けて考えていた。悪臭と香りの違いというよりも、悪臭が都会の臭いで、香りは子供の頃の記憶の中の香りという歴然とした区別をつけていた。
口の中で広がったいちじくの香りなどを味わいながら、鼻で呼吸をしていたことを思い出した。本来ならば、悪臭を感じてしかるべきなのに、不思議に感じることはなかった。
――なぜだろう――
と感じたこともあっただろうが、意識としては残っていない。田舎に移ってきて、感じていたのは、果実の香りを忘れさせるような新鮮な空気の香り。都会の悪臭に比べれば、かなり薄いものだが、それでも空気に自然な香りがあることを初めて思い知らされた気がした。
その香りといちじくの香りがダブっている。深呼吸すると、口の中に広がったいちじくの香りを思い出すことができる。一瞬感じる匂いというのは、いちじくの匂いを彷彿させる空気の匂いに違いない。それが私にとっての田舎の匂いなのだ。
レンガでできたごみ焼却炉は、いかにも田舎の風景にマッチしていた。本当は近くにあるはずの山が、焼却炉を通してだと、少し遠く感じる。鮮やかに見える山肌も、緑が映えて一層遠く感じさせるようだ。空を見上げると思い出す真っ直ぐに上がっていく白い煙、それはまさしく、そこでしか見ることのできないものなのだ。
さすがに新興住宅地らしく、ずっと静かというわけにはいかなかった。分譲地が新地のままで、これから買い手によって家が建てられていく。交差点には案内所兼営業窓口のような建物が建っていて、時々客が訪れているようだった。
新興住宅地としては都会にそれほど遠くなく、そのうちに土地の値段も上がるのではないかと考えていたので、これからどんどん人が増えてくるはずである。
実際、それからは住宅が増えていった。私の家の近くにも何軒かすぐに買い手があったらしく、あわただしく工事が始まった。その頃の思い出としては、工事の音がうるさかったということである。特にまわりが静かなだけに、整地するためのショベルカーや、ダンプの音から始まって、実際に家が建ち始めると、釘を打ち付ける金槌の音など、溜まったものではなかった。
それまでは気にならなかった音が、無性に気になり始めたのが、高校受験を控えていた時だった。あまり気にならないだろうと思っていたことが急に気になり始めたり、少しの音に対しても敏感になり、無意識に全神経を集中させているようで、無意識に苛立っている自分に気がついた。
――何で、僕がこんな思いをしなければならないんだ――
やり場のない憤りを誰にぶつけていいのか分からず、とにかくイライラしていた。怒鳴り込んで行きたい衝動に駆られたことが何度あったことだろう。イライラしながらも、文句を言いにいけない自分に憤りを感じていたに違いない。
「あんたが神経質になってどうするの。まあ、受験だから仕方ないけど、向こうも仕事なんだしね。文句も言えないわね」
一度、誰かに聞いてもらいたかった憤りを親に話したことがあって、その時に返ってきた答えがこれだったのだ。
――まったく予期していなかった答え――
さすがに、私の本当の気持ちまでは分からないだろうとは思っていたが、とても腹が立った。その理由は発言を無責任だと感じたからだ。子供が一生懸命に訴えているのに、返ってきた答えはまるで他人事、子供の訴えを真剣に聞いていないと思うと腹が立つ。それから、この件に関しては一切親の前で話すことはしなかった。
とにかく騒音には耐えられないものがあった。きっと親がもう少し親身になってきいてくれていたなら、ここまでイライラは募らなかったかも知れない。必要以上に敏感になっていて、苛立ちを四六時中感じているようで、そんな自分が嫌だった。
親はその頃、少し揉めていたようだ。子供の私は詳しいことを教えてもらわなかったが、まわりの人のうちの親を見る目が違うことは敏感に感じていた。
――どうして、あんな顔で見るんだろう――
親に対するのと同じような目を、私にも浴びせているようだった。
「あんまりお父さんと話するんじゃありませんよ」
一度母に言われたことがあった。学校から帰ってきた私が自分の部屋に入ろうと台所の横の階段を上がろうとした時だった。
作品名:短編集28(過去作品) 作家名:森本晃次