短編集28(過去作品)
一番楽に死ねそうなのは、睡眠薬やガスなどによる寝ている間に死ねると思うことである。しかし、それらもまともに死ぬことができればいいのだが、もし万が一失敗したならば、後遺症が残ってしまう。
「人間、楽な死に方なんてないんだ。だから、死ぬなんて考えちゃだめだぞ」
小学生の頃、一時期若者の自殺が流行ったことがあった。その時に学校の先生が話していた。
その時は子供心に、
「自殺なんてする人の気が知れないや。どうしてそんな苦しいことを考えるんだろう。死ぬ気になれば何だってできるじゃないか」
と思ったものだ。考えてみれば一番自然な考えである。
しかしそれが間違いだということに最近になって気付いた。確かに死ぬ気になれば何だってできるという言葉が、最近では信じられなくなった。
なぜなら、死ぬ気になればというが、それも気力がなければ究極の状況になっても頑張れない。いわゆる「開き直り」の精神がなければやる気が生まれることはなく、何でもできるなどという気持ちになれないのだ。
やる気とは何だろう?
子供の頃にはそんな言葉がなくとも、何でも信じてできていたはずだ。それができなくなったということは、
「いろいろなことを考えるからだ」
と思えて仕方がない。
いろいろなことを考えてしまうと邪念が入ってくる。悪い方へ考えれば果てしなく、少なくとも子供の頃よりもいろいろな状況判断できることが却って裏目に出てしまうことになりかねない。
「子供の頃に戻りたいな」
などと言っている人は、子供の頃の楽しかったことを思い出しているというよりも、何も考えないでよかった頃を思い返しているのかも知れない。
「生まれ変わったらどうする?」
「ネコになって、ずっと昼寝をしていたい」
という会話を聞いたことがあるが、それもまさしく余計なことを考えたくないと思う一心での答えだったに違いない。
それだけに子供の頃に自殺などということを真剣に考えたりはしなかった。
――余計なことは考えるだけ無駄――
と思っていたのかも知れない。それも無意識にである。子供の頃はものすごく長かったように感じるが、今思えばあっという間だったように思う。だが、一年一年を思い返せば間違いなく長かったのだ。それはきっと余計なことを考えないようにしていたからに違いない。
赤石の子供の頃には今でいう苛めはそれほどなかった。子供同士の喧嘩などは日常茶飯事だったが、それもその時だけで、根に持ったりなどすることはなかった。赤石少年のまわりにも苛められっこというのはいたが、苛めに自分で参加することはなかった。苛めている連中の気持ちが分からないからだ。
彼らに言わせると、
「むかつくんだよな。あいつを見てると」
これといった理由が存在するわけではない。それは今の苛めもそうだろう。だが、そこに陰湿さはなく、苛められる側にもそれなりの理由があるように思えるのだ。
その時期も自殺をする人が増えて社会問題となった。なぜ自殺をする人が増えたのか分からない。中には遺書も何もなく死んでいく人も多かった。
「いわゆる連鎖反応というやつかな?」
「連鎖反応?」
父親が話していたのを思い出した。
「そうさ、飛行機事故などでも、一度大事故が起こると、続くっていうだろう? 別に関連性があるわけではない。不思議な現象なんだけどな」
「でも自殺って自分で死ぬことなんでしょう? それが連鎖反応というのは少し言い方が変じゃないかな?」
「飛行機事故の連鎖反応だって、まったく関連性がないんだ。自殺だって同じだよ」
「そんなものかな?」
考え方の違いであろうか。連鎖反応という言葉がすべて連鎖していないといけないわけではないだろう。そういう意味で父のいう連鎖反応は原因からくるものではない。元々自殺する人の気が知れないと思っていた赤石は、自分で自分の命を絶つことは、それだけで地獄行きだと思い込んでいた。中学に入り地獄をテーマにした映画が忘れられないのも、自殺をすれば地獄行きだという思いが頭の中にこびり付いているからだろう。
多分に宗教的な要素を含んでいるのかも知れない。自分の命を絶つことの諸悪は教祖と呼ばれる人が説いているに違いない。宗教という言葉が何となく胡散臭いと考えていたのも、宗教が引き起こす社会問題も少なくない時代だったからである。
宗教が悪いというわけではないが、自分が思っているよりまわりの反応が過敏だった。
「宗教なんて何を考えているか分からない上に、お金が掛かるでしょう? 本当に嫌ですよね」
近所の奥さん連中の井戸端会議で耳にした会話だった。確かに社会問題としての宗教団体は、「お布施」という名目の献金を強制的に集めているところが多い。信者はそれでもいいのかも知れないが、脱会者にまで強制しようとする団体がいたりするから厄介だ。
――ごく一部の悪い団体のために、善良な団体まで白い目で見られるんだ――
分かってはいるが、どうしても十把一絡げで見てしまう。それも人間としての習性ではないだろうか。
また外国の宗教団体などでは、集団自殺というのがあるようだ。宗教というのは人を救うためにあるのだと思っていたが、本当にそうなのだろうか? もし死ぬことで救われるというのであれば、彼らにとって死というのはさほどの問題ではないのかも知れない。死ぬことで何かを得られると考えているのであれば、死後の世界にそれぞれの思い入れがあることだろう。
だが、死後の世界を見たものなど誰もいない。たとえ教祖といえども人間である。死んでしまえば戻ってこれるはずがないのだ。見たこともない人に説得力が存在するのか不思議で仕方がない。
赤石は実際に見たり聞いたりしたものでないと信じないタイプである。それも極端なのかも知れないが、現実的な性格なのだろう。だが想像上の世界を信じるなどできないはずなのに、地獄と天国の存在だけは信じないわけにはいかないと思っている。きっとそれは死んでからも魂が生き続けていることを前提とした考えの元に、成り立っているものなのだ。
死が怖くない人間がいるはずはない。この世に未練がなかろうが、それ以前に想像を絶する苦痛を味わうのである。死ぬ前というのはどんな人だって躊躇うものだ。一気に死ねる人の方が少ないだろう。それは肉体から離れてしまっても魂が存在できるかという不安からくるものなのか、それとも痛みや苦痛に対する恐怖からくるものなのか分からない。どちらも漠然としている恐怖なのだろうが、死ぬ瞬間に何を考えていても、それがあっという間でしかないのだとすると哀しいように思う。
――本当にあっという間なのだろうか?
人は死を目の前にすると、かつての思い出が走馬灯のように脳裏をよぎるという。自殺をする時にも同じようによぎるのだろうか? そうだとすれば、それがこの世への未練となって躊躇いもあるに違いない。それが怖さに繋がると思えてくるのも自然なことだ。
本当の怖さをその時に知るのかも知れない。だが、それと同時に感覚が麻痺しているとも考えられ、究極の苦しみに、感覚がないのではないかと思えてくる。
作品名:短編集28(過去作品) 作家名:森本晃次