短編集28(過去作品)
中学の頃に、ここに一人で来るということはなく、いつも友達と来るだけだった。その友達ともバカな話をしているだけで、まわりが気になるなどということもない。人目を憚らず、大きな声で笑っていた頃だったのだ。
「箸が転んでも楽しい年代」
まさしく中学時代はそうだった。
高校に入って、自分が色々なことを考える性格だと気付いてからは、人と話をするよりも一人でいる方が多くなった。
学校で友達を増やそうとはしなかった。それは意識してのことで、一人でいる時間を増やしたかったのだ。
モノを考えている時は、時間の感覚が麻痺してしまう。最初は分からなかった。考えているつもりでも、時々我に返ってしまって、考えが途中で飛ぶこともあったからだ。しかし、公園で考えるようになって、同じくらいの時間に同じ場所に座っていると、前考えていたことを思い出したりすることも多い。
前考えていたことを思い出すなど、他の場所では不可能だ。同じ場所であっても、時間が微妙に違っただけで思い出すことは困難である。それがきっと大きな木の根元から伸びる影を見ることで、思い出すことができるのだ。しかもくっきりと……。
夢と言うものが途中で終わっているからかも知れない。完全に完結しているのであれば簡単に思い出せるとは限らないが、途中で終わっていることで、思い出せないとするならば、自分の中で納得もいく。
夢や考えていた事を思い出すのは、どのあたりからだろう?
もう一度最初から考えるのであろうか? それともある程度意識の中にあり、途中から考えるのであろうか?
どちらとも言えない。
ある程度意識の中にあった場合は、最後に、
――これは以前に考えていたことだ――
と感じるだろう。最初から、
――何となく考えていたことがあったはずだ――
と感じる時は、きっと最初から思い出しているに違いない。
夢の中と、一人になって考えること、この二つは同じように思えるが、実はまったく違うものだ。
夢とうつつ、まさしくその言葉がピッタリで、寝て見る「夢」、起きて見る「妄想」、と言ってもいいだろう。
寝て見る夢というのは、完全に潜在意識の範囲で見るもので、自分が意識の中で不可能だと感じていることを見ることはできない。夢だから何でもありというわけではないのだ。逆に起きていて見る「妄想」は、潜在意識の範囲の外を創造することができる。それこそ何でもありとも言えるだろう。
時々この二つが頭の中で混同してしまうことがある。
夢で見たものなのか、妄想の中で出てきたものなのかを分からない時がある。夕方にいつもの公園のベンチで木の根元から伸びる影を見つめていると、夢だったのか妄想だったのかが思い出され、さらに続きを妄想する。
妄想というのがあまりいいイメージで描かれていないにもかかわらず、夢だと美しいというイメージがあったりするのは、やはり、妄想が潜在意識の枠を外れて、創造するものだからであろう。
潜在意識というものが、どこまでのものなのか、自分でも把握していない。私だけではないだろう。自分の中にある潜在意識と、他の人が持っている潜在意識が同じものでないことは分かる、しかし、まったく違っているわけもないと思う。誰も潜在意識や夢のことを話題にしないのは、考えていないからなのか、それとも無意識にタブーだと思って話題にしないのか、自分を顧みれば、きっと、後者のような気がして仕方がない。
だが、夢の中の方が、内容としては過激なところがあったりすることもある。潜在意識の中でのこととはいえ、殺したい人がいると思えば、行動に移すところまではいくのである。しかし、実際に行動しようとすると……。夢はそこで終わってしまう。そして、二度とその夢の続きを見ることはできない。同じ夢を見ていて、それに気付いても、きっと寸前で終わることを認識していることだろう。
「妄想」にはあって「夢」にはないもの、それはきっと「理性」というものだろう。だから夢では過激な内容を見ることがあるのだ。しかし、最後の瞬間に理性というものを思い出すというよりも、潜在意識の枠外としてはみ出してしまうもので、夢は必ずそこで終わってしまう。そう考えれば、夢が最後まで完結できない理由も分かるというものだ。
だが、逆に見ていて、現実の世界に戻ろうとする時に、すべてを忘れてしまうという考え方もある。だから、目覚めを感じ始めてから、意識がハッキリとしてくるまでに時間が掛かるのだという考え方である。
最初、私はすべて夢は見ているもので、現実に戻ろうとする時に次第に忘れていくものだと思っていた。なぜなら、夢で見ていたと思っていたあれだけ長かった時間、目が覚めてくるにしたがって、薄っぺらいものにしか感じられない。まるで紙の厚さのような薄っぺらさ、平面という二次元の世界へと押し込められているように感じる。しかし、存在したことの事実だけを示すために、紙の薄さだけが残るのだ。
だが、「妄想」というものを一緒に考えると、夢を完結できないという考え方も信憑性があるように感じられる。そのキーワードが私の場合、木の根元から伸びる長い影なのである。
公園のベンチに座り考えていると、妄想は果てしない。また妄想することに対しての私の発想も果てしない。妄想の何たるかを考えている時にも時間の感覚を忘れてしまっている。
いつものように駅へと向うと、改札口あたりの雰囲気が尋常ではなかった。中途半端に大きな駅で、急行も止まるということで、私が帰る時間というと、サラリーマンや学生でいっぱいだった。
最近は仕事が忙しく残業も多かったのだが、あまり残業が続くので、たまには定時に帰れるようにと、定時に帰る曜日を課で決めていたのだ。
その日は、定時で帰れるはずの日だった。
久しぶりの定時ということもあり、残業がないことにホッとしていたのも束の間、駅の普段とは違う雰囲気に嫌な予感を感じていた。自動改札の近くに黒板が置かれていて、何や書かれているようだ。ハッキリと見えないが、駅員があたふたしているのを見ると、どこかで事故でもあったのは察しがついた。
まず、黒板に歩み寄る。
――途中のR駅構内にて人身事故発生のため、上り下り線ともストップ、現在、復旧の見込みはありません――
と書かれている。
ここの鉄道は事故が少ないことでは有名だったので、一旦事故が起こってしまうと完全に駅員をはじめ、乗客はパニックに陥っている。乗客が駅員のパニックを誘発しているといっても過言ではないだろう。目の前で殺気立っている乗客や、まわりの状況に追われまくっている駅員を見れば一目瞭然である。
私もさすがに頭の中でパニックになっていた。ここからバスで十五分いけば他の鉄道の駅に行くことができる。そこから電車で同じくらいの時間で家まで帰りつくことができる。
果たしてどうしたものか……。
客の中には、そちらに乗り換えるから、お金を出せと詰め寄る人がいる。当然の主張だろう。しかし鉄道会社としても判断に困っているようで、なかなかうまく交渉できていないようだ。しかしそれでも駅長の判断で許されると、我先にと、払い戻しをしてもらい、そそくさとバスに乗り込んでいた。
作品名:短編集28(過去作品) 作家名:森本晃次