異能性世界
身体を起こすことができるようになると、まっすぐ洗面所に向かい、顔を洗った。乱暴とも思えるほど力強く蛇口を開くと、両手でこぼさないように水を集め、そのまま一気に顔にぶつけた。鼻に入った水が息苦しさを感じさせるが、頭をスッキリとさせるには、一番の薬だった。
朝起きてからすぐ、空腹状態であるにも関わらず、何かを食べたいとは思わない。行動を始めてしばらくすると空腹と、食欲の差がほぼなくなっていき、家を出る頃には、ちょうど空腹のピークを迎えるのだった。
近くの喫茶店でモーニングを食べるのも日課になりつつあり、二日と開けず、店に寄っていた。店の女の子が気に入っているのもその理由で、満面の笑みは何度見ても飽きることはなく、毎日でも寄りたい気持ちになっていたが、彼女がアルバイトに入る日を狙って立ち寄るようになったことで、店の人や常連さんには修が現れる日は、何よりも正確に感じられたのだった。
いつものモーニングを食べながら、コーヒーを飲んでいる時、やっと一日の最初に落ち着いた気分になれる。だが、その時に不安がよぎるのも事実だった。
「今日もいつもと同じ毎日を繰り返すことになるんだな」
と、感じるからだ。
余裕を持つことは、その裏返しに不安も抱えることになるというのは、取り越し苦労をしてしまう人間という動物の悲しい性と言えるのだろうか。それとも、他の人以上に、修は考えすぎるところがあるということだろうか。
その日も、いつものように歴史の本を開いて読んでいた。史実に基づいた本ばかりを読んできたが、最近は歴史上の人物の性格から、違った世界を描くフィクション系の小説を面白く拝読するようになった。歴史を知らない人でも知名度の高い人物を主人公にして読むことで、きっと歴史が好きになったのだろうという錯覚を与える効果のある本となるであろう。
しかし、歴史を知っている方がはるかに面白い。作家の立場からすれば、歴史を知っている人に読んでほしいと思っているに違いない。知らない人をいかに興味深くさせたとしても、それはただの宣伝でしかない。議論に値するものではないだけに、作品の質にこだわることはないだろう。真の読者とは、やはり歴史を知っている修のような読者のことを言うのだ。
本を読んでいると、本の中に入っていきそうだという話を聞くことがあるが、歴史の本ほどそのように感じるものはない。すべての情景が想像でしかない中、ドラマや映画のイメージだけに捉われて読んでいる本は、まさに入り込みやすい大きな穴が目の前に広がっているようだ。
本を読んでいると眠くなってくるので、あまり一気に読まないようにしている。それでも三十ページほどを一気に読み、睡魔が襲ってくる前に、コーヒーで眠気覚ましを行なった。
修はスクランブルエッグよりもボイルエッグの方が好きで、横にはウインナーよりもベーコンが乗っている方が好きだった。しかもベーコンは半焼き状態が好きで、カチカチになってしまうと、食べる気もしなくなってしまうのだった。
ボイルエッグを黄身だけ残し、白身だけを先に食べてしまうと、本を読み終わって、一気に黄身の部分を口の中に押し込んだ。口の中で溢れる黄身は、最初に広がった時に味を感じるわけではなく、軽く息継ぎをした瞬間、おいしさが口の中に広がっていた。それがスクランブルエッグにはない味わいだった。
睡魔に負ける前に喫茶店を後にした。その日は珍しく常連さんに会うこともなく、店の人と話をすることもなかった。
一か月に一度か二度、誰とも話をしたくないという時がある。その日は、誰とも話をしたくないと言う日に当たったのだが、幸いなことに常連も誰一人おらず、女の子も忙しそうにしていたので、話しかけられることもなかった。話をしたくないと言っても、寂しさだけは募るもので、どうして話をしたくないのかという理由を考えるのも億劫で、寂しさという代償だけは、どうすることもできなかった。
会社に向かう道では、リナに出会った交差点を横切って駅に向かうのだが、あれからリナが修の前に現れる予感がしなかった。次に会う約束も、連絡先も交換していなかったのだから、もし会うとすれば、この交差点かあるいは、この間一緒に行ったお店のどちらかであろうが、本当に会いたいと思えば、彼女の方から現れると感じていたのだ。
その日、会社が終わる頃には、ウンザリするほどの湿気が足元から湧き上がってくるのを感じた。アスファルトは埃を巻き上げ、ここ数日一定の時間に、決まったように降ってくる集中豪雨のせいで、雨が降る前兆を思わせる独特の臭いが漂っていた。
夕立に最近は会うことはなかった。いつも電車に乗る頃に降り出して、電車を降りると止んでいるというタイミングのよさで、持ってはいるが、傘を使ったことはなかった。これも、
「同じ日を繰り返しているのではないか」
と思わせる一つの理由でもあった。
食事など、好きなものはずっと続けることの多い修は、いつも同じモノを飽きるまで食べている。高校時代の学食で、カレーがおいしいと思ったら、何週間でも食べ続けた。
「よく飽きないな」
と言われることも多かったが、
「俺は飽きるまで食べるからな」
と笑いながら言い返したが、まんざらでもなかった。
同じ日を繰り返しているという意識を持つようになったのは、夢を見たからで、夢を見るようになったのは、飽きるまで食べ続けるような性格が災いしているのかも知れないと感じていた。
そんな毎日を平凡に繰り返しているのが日課になってしまっている修に、一つの刺激を与えてくれたのがリナの存在だった。
刺激臭のあるエッセンスという表現がちょうどいいかも知れない。今まで好きになった女性たちとはどこか違う。最初から、
「この人とは考え方が合うかも知れない」
と感じたのは、リナだけだったからだ。
元々一目惚れなどするタイプではなかった修は、女性を好きになっても、自分から告白する方でもなかった。女性から好きになってもらって、そして告白してもらうことが恋愛の始まりだという思いが強かったからである。
その日の夕方もリナと会った。リナは次第に饒舌になっていく。最初の出会いが衝撃的だっただけに、今は落ち着いて話ができている。付き合っているという感覚はないのだが、リナの方は、どう思っているのだろう?
それでもリナの話は興味深かった。夢の話を聞いていると思うと一つの物語を形成できそうに思えるが、本当に彼女の経験からだとすれば、信じがたいものではあった。
「私は毎日を繰り返している人を何人も知っているんですけど、その人たちと二度と会うことはできないんですよ」
「どうしてなんですか?」
「その人と酷似している人と会うことはできるんですけども、相手は私のことを覚えていないんですよね。逆に私が知らない人から声を掛けられることもあります。この間、お会いしましたよねって言われても、いいえとしか答えられないんですよ」
「それが、同じ日を繰り返していると思っている人たちなんですか?」